衝撃のラストに驚く映画でした。





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20171112/映画『We Love Television?』から萩本欽一の寂寥感の正体を憶測する。

映画『We Love Television?』を見た。

併せて、こちらのサイトも読んでみる。

「一生懸命やってはいるだろうけど、汗かくほどじゃない。だから言葉だけになっちゃったんだよね。言葉だけのお笑い。我々が修行したのは言葉言わないで動けっていう。なるべく言葉を言わない」
出典:萩本欽一語るテレビ論に「深い」と考えさせられる視聴者続出(女性自身)

ここで、80年代後半以降、約30年にわたって、萩本欽一にまとわりつき、また、土屋敏男が、露骨なかたちでフィルムに収めた、あの寂寥感の正体を推測するのだ。

それは、「圧倒的な体技が出来なくなったことへの苛立ち」ではないか。

好きなフレーズだから、何度も何度も引用する。

(全盛期のコント55号について)「だって、いきなりカメラのフレームの外からダーッと走ってきて、パっと飛び蹴りして、そのままダーッといなくなったり(中略)、ああ、画面の向こうではすごいことが起きてる。世の中は大変なことが起きているって思いましたよ」
出典:高田文夫著『笑うふたり』(中公文庫)

残念ながら、私はリアルタイムで見ていないが、それほどまでに全盛期=60年代後半の萩本欽一はすごかったのだろう。そして、年齢とともに、そんな「体技」が見せられなくなってからも、心の中では、「あの頃のように走りたい・飛びたい・蹴りたい」と思っていたのではないか。

思えば、前回書いたとんねるずの、特に木梨憲武の「体技」も素晴らしかった。抜群の運動神経が、ブラウン管の中で映えていた。また私は、ウッチャン(内村光良)のバック転を、1986年頃の新宿コメディシアターで見ているし、90年代後半あたりの、岡村隆史のキレッキレのダンスも忘れることが出来ない。

話をしたいのは、「体技」でのし上がった人が「体技」を失ったときに発散する寂寥感・孤独感のことである。

実は「体技」は、漫才ブーム以降のお笑い界では傍流である。主流は明らかに「言葉だけのお笑い」だ。テキスト=文字だから、台本にも書けるし、再現性が高い。また「体技」よりはプレーヤーを選ばない。ただ、聴覚だけに頼るためか、飽きるのが早いと思う。

逆に「体技」は、視覚までも釘付けにすることで、「言葉の笑い」にはない強烈なインパクトを持つ。常習性さえ生まれるだろう。しかし、再現性が低く(体調によってクオリティが上下する)、また、運動神経の点でプレーヤーを厳密に選ぶ。

そういう背景の中、「体技」の笑いが衰退していったのではないか。でもその分、「体技」の笑いに対する強烈な郷愁が、お笑いファンの心を侵食していく。

映画を『We Love Television?』をきっかけに、萩本欽一、木梨憲武、岡村隆史に感じる寂寥感を推測してみた次第である。なぜか内村光良にはそれを感じないが、心の中では分からない。



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20171104/とんねるずの『みなおか』終了に思うこと。

この記事タイトルを見て、強烈な感慨にふけったのである。感慨の源は、「みなおか」という表記である。その感慨を構成した要素を分解すると、この3点になる。

(1)「とんねるずのみなさんのおかげでした」は、私の知らないどこかで「みなおか」と略されていたんだ。

(2)そのように略しだしたのは、おそらく、とんねるず本人も含む、番組スタッフたちだろう。

(3)さらに憶測すれば、あの番組を未だに見ていた人は、一時期とんねるずが、好んでメディアに乗せていた、そういう内輪の「業界略語」に、違和感を感じない人たちだったのだろう。

ワタシは、その「みなおか」、ひいては、とんねるず自体に関心を失っているので、今回の番組終了について、感慨など何もない。むしろ「まだやっていたのか」と驚く程度である。

ただし、上記「とんねるず的業界ムーブメント」に近いパンチラインを出されると、たまらないものがあるのだ。なぜならば、ワタシ自身が、そのムーブメントに関わりたくって、加わりたくって、しょうがなかった時期があるから。

もちろんそれは80年代後半。業界(ギョーカイ)のヒエラルキーを、底辺から叩き潰し、叩き潰した残骸のてっぺんに上り詰めた、素人の2人組。

ワタシ含む、何十万人という若者(しかし現在もう40~50代)が、「とんねるずのように、自分たちも出来るんじゃないか」と思った、というか、勘違いをした――「熟練なんかくそくらえ、ノリと勢いだけで、業界に忍び込むことができるんだ」。

結果、何十万人の多くは惨敗した。残骸のてっぺんに、ぴょんと飛び乗るのにも、強靭な足腰と、強烈な瞬発力が必要だった。とんねるずにはそれがあった。ワタシたちにはそれが無かった。

30年近い時が流れ、視聴者として、とんねるずに接することとなる。ここからは個人的な見方も入るが、残骸の上に、新たな城を建てたダウンタウンや爆笑問題に対して、とんねるずは、残骸にしがみついているように見えた。

そして、あの頃、あれほど夢中になって見ていたとんねるずに、徐々に興味を失っていった。

その30年の間に、年を取りながら気づいたのは、やっぱり「熟練」こそが大切なんだ、いや「熟練」しか無いんだということ。

だから今日も、書いた原稿を丁寧に校正し、たまの電波へ出演には、最大限の知識を事前に用意する。ノリと勢いだけの中年なんて、門前払いなのだからと。

そして、今思うのだ――「みなおかって、何?」



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20171029/クライマックスシリーズの発展化を具体論で考えよう。

さて、日本シリーズ真っ盛りだが、毎年この時期になると、クライマックスシリーズ(以下CS)不要論が騒がしくなる。特に今季は、3位のベイスターズが、首位から14.5ゲーム差を付けながら、シリーズに進出したので、例年よりも騒がしい気がする。

先に個人的意見を述べておけば、ワタシはCS賛成派である。その理由は以下。簡単に言えば、消化試合を激減させるビジネス効果を重視した賛成意見。例の「球界再編問題」の悪夢を思うと、こういうアイデアが必要だという認識に立つ。

20131020/それでも、クライマックスシリーズに賛成する。
20150906/それでもやっぱり、クライマックスシリーズに賛成する理由。

ただし、現在のCSのシステムも、100点満点ではないとも思う。減点の理由は、多くの方が言うとおり、ペナントレース144試合の結果をもっと尊重するべきだというもの。それも、その通りだと思う。

で、もうそんな論議は聞き飽きたので、現在のCSシステムにどのようなルールを追加するべきなのかを、具体的に考えてみたいと思う。

つまり、ペナントレース144試合の結果をどれくらい尊重すれば=首位チームにどれだけのアドバンテージを与えたら、どのくらい試合数が減るのか=ビジネスチャンスをロスするのか、の実際的な比較検討である。

まずは鈴木私案。現行のCSシステムを前提としつつ、以下のルールを加える。

(1)以下の場合は、CS進出権を剥奪する。
1-1:ペナントレースで、首位から20ゲーム以上の差がついた場合。
1-2:ペナントレースで、負け越した場合。

(2)ファイナルステージについて、進出チームとのゲーム差で、首位チームにアドバンテージを付ける。
2-1:前提として、首位チームに1勝。
2-2:10ゲーム以上(20ゲーム以下)=首位チームに更に1勝(計2勝)。

このルールで行けば、2007年からのCSにおいて、まずルール1-1によって進出権を失うのが、
・2009年セ3位のスワローズ(22.0ゲーム差)
・2011年パ3位ライオンズ(20.5)
・2012年セ3位のスワローズ(20.0)

次にルール1-2で進出権を失うのが、
・2009年セ3位のスワローズ(借金1)
・2013年セ3位のカープ(借金3)
・2015年セ3位のタイガース(借金1)
・2016年セ3位のベイスターズ(借金3)

以上より、上ルール(1)を導入すれば、以下のCS1stステージが無くなったことになる。
・2009年セ
・2011年パ
・2012年セ
・2013年セ
・2015年セ
・2016年セ

思ったよりも多い気がするが(特にセ)、11年間で6回と半分程度なので、許容範囲のような気もする。逆に、「CS進出のために勝ち越そう」「CS進出のために20ゲーム差内に入ろう」という、新しいモチベーションによって、更に消化試合が減っていくという副次効果もある。

次にルール2の検証。ルール(2)の2-2の追加によって、新たに発生するアドバンテージは以下。
・2008年セ ジャイアンツに+1勝(対ドラゴンズ)
・2009年セ ジャイアンツに+1勝(対ドラゴンズ)*
・2011年パ ホークスに+1勝(対ファイターズ)*
・2012年セ ジャイアンツに+1勝(対ドラゴンズ)*
・2013年セ ジャイアンツに+1勝(対タイガース)*
・2015年パ ホークスに+1勝(対マリーンズ)
・2016年セ カープに+1勝(対ジャイアンツ)*
・2017年セ カープに+1勝(対ベイスターズ)
・2017年パ ホークスに+1勝(対イーグルス)

*上ルール(1)でCS1stステージが消滅する年なので、シーズン2位チームと比較している。

こちらも思ったより、アドバンテージが発生することになる。逆に言えば、首位チーム、特にジャイアンツとホークスが、現行システムで、かなり割を食っていたということなのだが。ただし、こちらも、アドバンテージを付けられた相手チームの切迫感(=1敗したら王手)が、CSをさらに面白くする可能性がある。

検討するべき視点は、上のような、CS1stステージの消失とファイナルステージのアドバンテージ強化によって発生する、「ペナントレース144試合の結果の尊重度」と「試合数が減ることによるビジネスロス」との比較である。

ワタシ的には、これくらいがちょうど良いと思ったのだが、どうだろう。また試合数の減少は、今回問題になった、CSの日程問題の緩和にもつながる。

いずれにせよ、CS論議は、もうそろそろ、具体的なルール案を戦わせることで、現実的に考えていきたい。そういうフェーズに来ていると思うのだ。



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20171022/『漫画 君たちはどう生きるか』に見る「図書館リベラリズム」。

『漫画 君たちはどう生きるか』(マガジンハウス)を読んだ。ヒットしているという。8月発売で10万部を超えたというのだから、このご時世、大ヒットである。

この本は懐かしい。私も高校時代に、教師に進められて読んだ記憶がある。発売されたのが1937年というから、まさに戦中である。やたらと博覧強記な叔父さんから、主人公の「コペル君」が、生き方を学んでいくというストーリー。

叔父さんがコペル君に伝えていくのは、経済原理であったり、歴史観であったり、貧困問題であったりと、なかなかにリベラルな視点からのメッセージである。当時最新鋭の思想であったマルクス主義の臭いも、底辺に流れている。戦中に、こういう書きっぷりが許されたのかと、変なところで驚く。

漫画化してポップな手触りにしているとは言え、こういう教養的でスクエアな本がなぜ今、売れるのだろう。

まずは、池上彰などの推奨者の力。そして次に、現在の、ビジネス書やヘイト本で占められた書籍市場へのカウンターとして、こういう本に注目が集まるという構造がありそうだ(毛色は異なるが、例の『うんこドリル』-270万部!-も同様の構造が背景にあろう)。

とりわけ、空港にある書店などを見ているとげんなりとする。金を稼ぐことと外国を嫌うことを書いた本ばかりで占められているからだ。そういう中に、こういう本が、毅然と並べられているさまには、何か救われるものがある。

その結果として、私のように大昔にこの本を読んだ大人たちから、子供たちに対する「プレゼント需要」を喚起しているとも思われる。その流れからは、同様に「課題図書需要」「学校図書館需要」などに広がっていくはずである。

ここで個人的な経験を書いておく。私は、大阪府立清水谷高校の図書館で見つけた、渋谷陽一『ロックミュージック進化論』(NHK)を読んで、人生が変わった口である。これはヤバいと思った。そして、少なくとも、こういう本、ここで書かれている内容に無縁な人生は、歩んではいけないと思った。

学校図書館で出会った本に、生き方をぶるぶると揺さぶられる経験――「図書館リベラリズム」。

何が言いたいかというと、「学校の図書館で触れて、生き方を揺さぶる本」が青春時代には必要で、『漫画 君たちはどう生きるか』の売れ方を見る限り、そういう本への需要は、書籍市場へのカウンターとして、今後見直されていくのではないかということである。

金を稼ぐ本や外国を嫌う本があってもいいけれど、少なくとも青春時代において本とは、「金を稼がない生き方、外国を好きになる生き方もアリなんだぞ」と、生き方を揺さぶるものであってほしいと思う。

【参考】20161120/出版不況に求められるのは、人を「不良(わる)く」させる本だ。



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20171015/植木等になりたいボーイと沢田研二になりたいオヤジ。

NHK『植木等とのぼせもん』がいよいよ良い。植木等と、その付き人になった「のぼせもん」=小松政夫の物語。あの映画風に言えば、小松政夫はさしずめ「植木等になりたいボーイ」となる。

ストーリーは、小松政夫の著書を読んでいたので、大体は予想通りなのだが、とにもかくにも、植木等を演じる山本耕史の言葉や動きが、それはもう植木そっくりで恐れ入った(ご丁寧に、歌も吹き替えではなく山本自身が歌っている)。加えて、谷啓役の浜野謙太も秀逸。

そういえば、テレビ朝日系で新しく始まった帯ドラマ『トットちゃん』でも、黒柳徹子の父親のバイオリニスト役を、山本耕史が好演している。バイオリンを持った立ち姿がいい。声帯・形態模写が得意な人のだろう。それ即ち、名優ということだ。


話は変わって、沢田研二のコンサートに行ってきた。感想は、こんな感じ。

植木等と沢田研二。この渡辺プロダクション出身の2人の巨人に通底するのは、「円熟の拒否」という哲学ではないか。

沢田研二が、一切大物ぶらず、相も変わらずロックンロールを歌い、板(舞台)の上に張り付いて、来年古稀を迎えようとしていることに加え、植木等の晩年と言えば、何といっても、1990年の紅白歌合戦の、この感動的なパフォーマンスである(当時64歳)。

円熟を拒否するということ――そういうスタンス、そういう生き方に、芸能というものの本質があるような気までしてくる。逆に言えば、ちょっと売れただけでふんぞり返る「小物」が、周りにいかに多いことだろう。

円熟を拒否するジジイになりたい。つまり私は「沢田研二になりたいオヤジ」である。

また話は変わって、最近ありがたいことに、色んなところで、原稿を書く機会をいただいている。ただし「沢田研二になりたいオヤジ」としては、まず〆切を守ることだと思っている。

〆切破りを自慢するなど、「円熟」ではなく「未熟」だ。そういうライターが多いから、ライターという職業が低く見積もられるのだと思う。以下、最近のメディア露出です。ぜひご覧ください。

「切れ味鋭いコピーライター、NOKKOは作詞家としてもっと評価されるべき」
「日本のロックの未来を担う、桑田佳祐のジェラシー【ゲスト スージー鈴木】」
「朝ドラ『ひよっこ』をヒットに導いた3大理由」
「オコエ瑠偉(楽天)の言葉とビートたけしの言葉。」



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20171008/「純正律動」「平均律動」試論~ビートとシャッフルの最適調合比率を考える。

苫米地英人『音楽と洗脳 美しき和音の正体』(徳間書店)という本を、興味深く読んだ。

面白かったのは、(「純正律」に対して和音の響きが濁る)「平均律」を主体とした音楽教育と、コンパクトディスク(CD)における超高周波カットを批判するところ(逆にコード進行の話や機能音源は退屈だった)。

「純正律」の話は説明するのは難しい。そこで、私が提唱する「純正律」(と「平均律」との差異)の簡易的な実感方法を書いておきたい。

(1)ピアノかギターで「ド」と「ソ」を一緒に鳴らす(ドとソのあいだの音の「幅」は「純正律」でも「平均律」でも余り変わらない)

(2)その音に合わせて「ミ」の音を、ハモるように(=「純正律」で)歌う。

(3)その「ミ」の音と、ピアノかギターで弾いた「ミ」の音の違い(楽器の「ミ」の方が明らかに高い)が、「純正律」と「平均律」との差異。

さて、この本を読んで思ったのは、「リズムにも純正律と平均律があるんじゃないか」ということだ。日本語で「リズム」は「律動」と書くので、言わば「純正律動」「平均律動」としての試論である。

まずはこちらをお読み下さい。
「20150502/スウィングとビートのせめぎ合い~ロックのリズムの生成過程に関する仮説」

ここで書いているのは、エイトビート(ビート)とシャッフル(スウィング)の間に、人間が最も気持ちいいと思うリズム感があるのではないかということ。

その気持ちいいリズムを「純正律動」とするならば、数学的・機械的に演奏されるエイトビートやシャッフルという「平均律動」は、気持ちよくないということになる。

思い起こせば、少年の頃に聴いたこの音源に、なぜあんなに興奮したのか。それは、リッチー・ブラックモアのギターより、ジョン・ロードのオルガンより、何といってもイアン・ペイスのドラムスが、「ビート:スウィング=8:2」くらいの、見事な調合になっていたからじゃないかと思い当たる。

そんな、ビートとスウィングの見事な調合で叩けるドラマーは、実はそんなにいないと思う。洋楽であれば、イアン・ペイス>ジョン・ボーナム、リンゴ・スター>チャーリー・ワッツ、ということになるが、日本では、例えばこの3人のドラマーが優れていると思う。

個人的嗜好で言えば、ドラマーは激しいソロなんかより、エイトビートとシャッフルの黄金比率を叩き続けられるかどうか。日本人で言えば、シーナ&ザ・ロケッツの川嶋一秀、ハイロウズの大島賢治、古くは近田春夫&ハルヲフォンの恒田義見などが好みにピッタリ。

シーナ&ザ・ロケッツの川嶋一秀で言えば、やはりこの《レモンティー》のイントロのドラムス。

あと、ハイロウズの大島賢治で言えば《ハイロウズのテーマ》のイントロ、古くは近田春夫&ハルヲフォンの恒田義見は、名作アルバム『電撃的東京』に入っている《きりきり舞い》が素晴らしい。

最後に、かまやつひろしの、実に興味深い発言を。かまやつひろし『ムッシュ!』(文春文庫)において、当時、ロックンロールのスタンダード=《ジョニー・B・グッド》の演奏に目覚めるシーン。

「ロックンロールはシャッフル(八分音符を跳ねさせるリズム)だったのだ。それを、ほとんどのバンドは、(四分音符*だけの)エイト・ビートで叩いていた。それでは単調なスリー・コードだからもたないし、気持ち的にだんだん遅くなって白けてしまうのである。そこで、ギターだけエイト・ビートで、ドラムはシャッフル・ビートでたたいてみた。すると『おお、前に行くぞ!』ということになった」
(*鈴木註:「八分音符」の誤記と思われる)



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