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20180218/「現象」ではなく、チェッカーズの「音楽」を語ろう。

番組『ザ・カセットテープ・ミュージック』のチェッカーズ特集の中でも、大きく取り上げた、鶴久政治さんをお招きした、トーク&ライブイベントを行います。3月11日(日)の夜、代官山にて。ぜひお越しください。

ワタシが音楽評論をする上で、いちばん大切にしているのは、「音楽そのもの」を語るということです。「音楽」そのものを取り巻く時代背景とかトリビアとか身内話ではなく、あくまで、耳から聴こえるリズムとハーモニーとメロディと歌詞を語りたい。

で、とても気になるのは、その「音楽そのもの」を語られている度合いが、音楽家によってかなり異なること。ワタシの造語でいう「大卒ロック」(大卒の人中心で聴かれていそうな音楽。その代表は山下達郎)は、「音楽そのもの」が、しっかりと語られている。逆に「高卒ロック」は、あまり語られず、「現象」として、大雑把にまとめられることが多い。

そして、その代表が、グループサウンズであり、キャロルであり、チェッカーズだと思うのです。

番組の中で語ったチェッカーズの「音楽そのもの」の魅力。(1)藤井郁弥のボーカル、(2)大土井裕二のベースプレイ、(3)鶴久政治のソングライティング。その(3)による大傑作として、89年発売のシングル《Cherie》。

今回のイベントでは、「現象」ではなく、チェッカーズの「音楽そのもの」を語りたいと思っています。いくつかの音源や映像、そして、鶴久政治さんのミニライブも併せて、結成から35周年を迎えるチェッカーズの本質に迫りたいと思います。

トーク&ライブ、そして代官山のおしゃれなハコということで、若干お高くなっていますが、チェッカーズ・ファンのみならず、音楽ファンに広く来ていただきたいと思います。限定80席です。お早めに。

「現象」ではなく、みんなでチェッカーズの「音楽そのもの」を語りましょう! チケットは画像をクリック。

なお、その後日にこんなのも。こちらは限定15名です。チケットは画像をクリック。



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20180210/小泉今日子の不倫を批判する人は小泉今日子に無縁の人だ。

そもそも不倫報道には、あまり興味はない。実は世の中もそうなのではないか。その証拠に、芸能人や政治家の不倫報道が、一瞬熱病のように盛りがっても、みんなすぐに忘れるではないか。ここでクイズ。今井絵理子の不倫報道はいつごろで、相手の職業は何だったでしょう。

ただし、不倫がその芸能人の芸風とシンクロする場合、つまり、1つのエンタテインメントとして成立している場合は、エンタテインメント好きとして、見逃すことができなくなる。

そんな「エンタメ不倫」。ここ最近で言えば、やはり斉藤由貴の不倫にトドメを刺す。斉藤由貴という人の職業は「女優業」ではなく「魔性業」(ましょうぎょう)だと思っている。無味乾燥清潔な女優が増えてしまった中、太地喜和子や大竹しのぶ、荻野目慶子が持っていた、あの怪しさ・艶めかしさを立ち込めさせる職業。

一昨日、ブルーリボン賞の助演女優賞の受賞会見があったらしい。それはどうでもいいのだが、その会見における斉藤由貴が抜群に美しかったのだ。こういう言い方もどうかと思いつつ、例の不倫事件によって、「魔性業」のステージが一段昇進した感じだ。

そして小泉今日子である。小泉今日子の本業は何か。私は(語呂は悪いが)「ヒエラルキー・ブレイク業」だと思っている。

歌手、女優、文筆家。それぞれにおいて、卓越した能力を持っているわけではない。歌唱力、演技力、文筆力、正直平凡な水準。

ただし、独特の属人的センスによって、他の誰にも真似出来ない歌・演技・執筆を商品として成立させ、その結果、歌唱力、演技力、文筆力などという、古めかしいヒエラルキーを無化してしまう。

80年代から、芸能界のメインストリームを歩んできた小泉今日子。メインストリームのレッドカーペットを、ずんずん進んでいく彼女の後ろで、いろんなヒエラルキーが、ガラガラと崩れていくのを、彼女と同世代の私は、約30年の間、じっと見ていた。

そんな小泉今日子にとって「不倫をしないのは善、不倫をするのは悪」などという価値観ヒエラルキーなど、何ほどのものでもないだろう。そして、小泉今日子が相手をしていたのは、そういう「ヒエラルキー・ブレイク」に喝采をしていた人々だ。

だから、小泉今日子の不倫ほど叩きがいのない不倫は珍しい。叩きがいがあると思っている人は、根本的な部分で小泉今日子と無縁な人だろう。はるか33年前、《なんてったってアイドル》の歌詞=「♪清く正しく美しく」を半笑いで歌ったのを、聴いてなかった人だろう。



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20180127/21世紀枠・膳所高校の「文武両道」性って?

センバツの出場校が発表された。センバツと言えば「21世紀枠」。今回、秋田の由利工業、佐賀の伊万里高校、そして滋賀の膳所高校という、3つの県立高校が選ばれた。

「21世紀枠」とは何か。

「一般選考枠」のほかに、秋季都道府県大会において参加校数が128校を上回る都道府県はベスト16、それ以外の県ではベスト8以上の学校の中から、恵まれない環境、他校や地域に良い影響を与えているなどの理由で認められた高校が3校選出される。
出典:はてなキーワード「21世紀枠」

この制度自体に反対の人もいるかもしれないが、今回、私が注目したいのは、制度自体というより、具体的な運用についての問題である。3校の選出理由を追ってみる。

まずは21世紀枠候補9校のうち東日本5校を選考し、由利工に決まった。主将、副将が生徒会長となり、あいさつの励行などを率先するなど全校生徒の2割近くを占める野球部員が学校改革に取り組んだ。また、工業高校ならではの資格を生かしたボランティア活動にも力を入れていることが評価された。

西日本4校からは伊万里が選出された。1916年創立の伝統校で、練習時間が短いながらも創意工夫で効率的な練習をする。少年野球大会の審判を部員がボランティアするなど、野球人口の底辺拡大にも取り込み、周辺地域の期待も大きい。
出典:スポーツナビ(1月26日)

両校とも「ボランティア」がキーとなっているようで、それはいい。ただ小学校じゃあるまいし「あいさつの励行」はそれほど重要か? また「創意工夫で効率的な練習をする」ことなどは、それ自体ではなく、その結果としての対戦成績で見るべきではないか。

さらに気になるのが、もう1校、滋賀県立膳所高校である。

1898年創立の伝統校。限られた練習時間で効率性を高めるために、野球経験のないデータを管理する専属部員を置くなどデータを重視。練習メニューも部員らで考えている。
出典:スポーツナビ(1月26日)

どうもキーワードは「データ」らしい。スポーツ報知はこう伝える。

この日の21世紀枠特別選考委員会では、データを管理する、野球未経験の専属部員を置く独自の取り組みを高く評価。「女子生徒が野球にどう絡んでいけるか。膳所はマネジャーだけでなく、いろいろな関わり方があることを証明している」といった意見も出たという。
出典:スポーツ報知(1月27日)

でも私にしてみれば、伊万里高校の「効率的な練習」同様、データの活用などは、勝利のためのツールに過ぎないのであって、それ自身ではなく、その結果としての対戦成績で見るべきだと思うのだ(膳所高校は、昨年の滋賀県秋季大会において、準々決勝で敗退)。

ただ、多くのスポーツマスコミ、例えば、私が宅配で取っている日刊スポーツには、データの活用云々ではない、「本音」の選考理由が書かれている。

3校目に関しては白熱した議論の結果、文武両道の観点から膳所。
出典:日刊スポーツ(1月27日)

出た、「文武両道」。高校野球界で、たまに賑わう言葉。いわゆる「受験校」が出てきたら、マスコミや、一部の野球ファンが目を細めて応援する。テレビは宿舎に潜入し、問題集を解いている球児の姿をクローズアップする。

スポーツ報知も先程の記事でこう添えている。目を細めた記者の顔が浮かびそうだ。

偏差値は軽く70を超え、昨年度は東大に3人、京大には66人もの合格者を輩出した全国有数の公立進学校でもある。

明晰(めいせき)な頭脳を味方につけて、湖国の秀才軍団が“6度目の正直”で初勝利を目指す。
出典:スポーツ報知(1月27日)

ということは、「21世紀枠特別選考委員会」の一部委員も、膳所高校の「受験校」としての姿に、目を細めて推したのではないか。言うまでもなく、その高校の偏差値や、東大や京大の合格数など、野球部員たちと直接の関係などないと思うのだが。

また、先の「データ班」の件も、そのような「受験校」が扱うデータということで、かなり底上げされて評価されたはずである。

――と、まぁ、膳所高校の選出を斜めから見てみたのだが、実は、本当に気になるのは、この「21世紀枠」というシステムが、高校野球が抱える、様々な問題を先送りする装置となっていることである。

つまり、「21世紀枠」というシステムを通じて、高野連は「私たちは勉強やボランティアを重視しています」とプレゼンする。それに乗って、マスコミや一部の大人たちが目を細めて応援する。目を細めている間に、目くらましを受け、野球漬けや故障の問題、体罰や暴力、いじめという問題が、見えなくなり、先送りされていくのである。

あれ? それらの問題は、20世紀に捨てていくべきものではなかったの?



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20180120/小室哲哉引退会見に思うこと。

あ、まず最初に、イベントの告知です。ぜひいらしてください。楽しいはずです。

先に書いておけば、ここでは「文春砲」の是非については書きません。「Aさん」との関係についても、まったく興味はありません。書きたいと思ったのは、音楽家としての小室哲哉に関する、冷静な状況認識についてです。

音楽家・小室哲哉の魅力を一言で言えば「奇妙なメロディを作る作曲家」ということになります。「奇妙」を、もう少し具体的に言い換えれば「独創的」、さらには「機械的」なメロディ。

渡辺美里《My Revolution》(86年)のコード進行や転調の衝撃は、今でも忘れることは出来ません。他にも篠原涼子《恋しさとせつなさと心強さと》(94年)の、天にも昇るような上昇音階や、TRF《EZ DO DANCE》(93年)のたった2音だけで出来たサビ、そして、それらとは真逆の、古めかしい5音音階で出来たH Jungle with t《WOW WAR TONIGHT》など。

これらの奇妙で機械的なメロディは、当時まだ目新しかった、ピカピカに光ったコンパクトディスクというメディアや、カラオケボックスという舞台に、あまりにもよく映えました。

逆に、音楽家・小室哲哉の弱みというものがあれば、1つには歌詞。言葉のセンスがぞんざいなこと。いい歌詞は楽曲をスタンダードにします。逆に言えば、よく指摘されますが《Body Feels EXIT》(95年)のような、デタラメ英語を使うことによって、当時の小室メロディは、消費し尽されるスピードが上がってしまった。歌い継がれない曲になってしまった。

そしてもう1つは、こちらはあまり指摘されませんが、リズムに対する時代感覚の弱さです。ワタシはglobeの《FACES PLACES》が、小室メロディの中のフェイバリットなのですが、あの曲でも、途中のマーク・パンサーのラップの部分でガクっと来るのです。

当時にしても、あまりにオールドスクールなラップ。ああいうラップを中に挟むのは、小室哲哉という人の、最新のリズム感覚との距離の置き方、ひいては、かなりドメスティックな感覚を表しています。

さて、強みの方に戻ると、小室哲哉の後継はヒャダイン(前山田健一)だったのではないかと、考えています。少なくとも、彼による、ももいろクローバー《行くぜっ!怪盗少女》(10年)は、そのびっくりするような転調(Am→E♭m)は、小室哲哉よりも小室哲哉的な、実に奇妙なメロディに聴こえました。

逆に、昨年発表された、久々の小室哲哉×安室奈美恵のコラボレーション=安室奈美恵《How do you feel now?》は、同じアルバムの同じディスクに入っている《Showtime》などの画期的な楽曲に比べて、正直見劣りするものでした。


罪を償うとともに、自分の身体的な限界であるとか、この音楽界、エンターテイメント界に僕の才能がほんとうに必要なのか。もはやここまでだな。音楽の新しさみたいなものを作れるものがあるのかな、という自問自答を続けてきました。
出典:小室哲哉会見の100分全記録「5年前から男性的能力なく、男女関係ない」「単語でKEIKOと会話」

会見で発せられた、上の言葉は、マスコミ的にはほとんど注目されていませんが、小室哲哉という人の、冷静な状況認識力を示していると思います。

さてワタシは、作曲・編曲は、スポーツのようなものではないかと捉えています。作詞もそうかもしれませんが、音を扱うほうが、肉体的なストレスが、より強いのではないでしょうか。

筒美京平がよく「鉄人」のように扱われますが、仮に彼の黄金期を、いしだあゆみ《ブルー・ライト・ヨコハマ》(68年)から、田原俊彦《抱きしめてTONIGHT》(88年)だとすると、その間たった20年。「鉄人」筒美は48歳で黄金期を終えたことになります。そして小室哲哉は今年、満身創痍の還暦に。

93年、94年から2000年くらいがブームだったと思うんですけれども。それが、一番基準になりまして、それを超えることはできないですし、それを下回ると期待に応えられないという感覚ですね。あの時代の曲は素晴らしいねと言ってくださる方が一番多いので。そのレベルというのは時代の流れもありますが、あれを基準にしてしまう。
出典:小室哲哉会見の100分全記録「5年前から男性的能力なく、男女関係ない」「単語でKEIKOと会話」

言いたいことは、1つ、冷静な認識力を持つ小室哲哉は、そもそも引退を考えていたのではないか。2つ、ヒャダイン以後の現在の音楽業界の中で、それは正しい判断ではないか。3つ、そんな中で「文春砲」が作動したので、その反作用の力を利用して突然、引退を発表したのでないか、ということです。

経緯が経緯だけに、小室哲哉の引退を惜しむ声や、引退に追いやった「文春砲」への非難が高まるのは当然ですが、ワタシは、ここまで書いたような理由で、小室の引退を、冷静に捉えたいと思っています。

大声で叫んだ
みんなで叫んだ
どうしてあんなに
未来を気にせずに
笑った語った
遊んだ荒ぶった

安室奈美恵《How do you feel now?》(作詞:小室哲哉)

まさに、How do you feel now?――小室哲哉は、一体いま、何をどう感じているのでしょうか?



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20180113/星野仙一を正しく総括するために。

最近『週刊文春』を購読しているが、最新号の鷲田康による「野球の言葉学」を読んで驚いてしまった。取り上げられているのは、先日急逝した、星野仙一。記事の内容をまとめるとこうだ。

(1)1991年の星野仙一の中日監督退任時、鷲田氏は記者として、退任をいち早く察知し、星野に嫌がられる。

(2)「退任報道」が出た日、星野仙一と鷲田氏が二人きりになり、そこで星野から「おれがこのユニフォームを着ていなければ頭をカチ割っとるわ!」と言われる。

(3)それだけでなく星野仙一は、持っていたノックバットを鷲田氏に投げつけ、それが鷲田氏の「顔の前十センチくらいに」飛んでくる。

(4)そのあと鷲田氏は、監督室に呼ばれて、そこで星野仙一は、コーヒーを入れながら、こう言う――「確かにおれはユニフォームを脱ぐ。来年からネット裏でみんなと野球を観る。今のままじゃオマエとも気まずいやろ。だからこれでこの件は終わりにしよう」。

その流れで、星野仙一の発言=「おれは選手を殴る。でも殴った選手の面倒は最後までみる」を紹介し、鷲田氏は「もちろんこんな監督はもう二度と出てこない。良き昭和の監督だった」と結んでいるのだが。

私がまず直感的に思ったのは、こういうことだ。

前回の記事で取り上げた、浜田雅功の「黒塗り」が非難される時代である。「黒塗り」よりも、もっと直接的な「暴力」という罪が、「燃える男」による「鉄拳制裁」のように言い換えられ(「制裁」は善人が悪人にするものだ)、更には「愛情の裏返し」のように美化されるのは、おかしいんじゃないかということだ。

加えて今回注目にしたいのは、鷲田氏の記事に見られる、星野仙一という人の「ムチ」と「アメ」の使い回しの上手さについてである。手順としては「アメとムチ」ではなく「ムチとアメ」。

ムチ:ノックバットを投げつける。
アメ:コーヒーを入れて「この件は終わりにしよう」という。

ムチ:「おれは選手を殴る」
アメ:「殴った選手の面倒は最後までみる」

そのムチ→アメの落差に、選手や野球マスコミ、一部の野球ファンはキュンとするんだろう。それが星野仙一一流の人心掌握術なのだろう。

関連して思い出すのが「元不良」に対する、世の中の甘さである。みんな大好き「元ヤン」。例えば、元ヤンキー、元不良、元暴走族、元犯罪者……などの芸能人に対して、「立派に更生した」「少年の心を持ち続けている」とか加点する感じ。単にマイナスがゼロになっただけなのに。

星野を「燃える男」と称え、彼の行為を「男らしい」と持ち上げるマスコミの報道には、本当にうんざりさせられる。彼がいかに暴力的で、ユニフォームを着ればまさに傍若無人、自分の思いどおりに振る舞い、社会的・道徳的ルールを無視しても許されると考えている──そんな人物であるという真っ当な報道にはいつ出会えるのだろう。
出典:「『燃える男』の2つの顔:鉄拳制裁は認められるべきか」マーティ・キーナート(2001年)

「ムチ」→「アメ」=マイナス→プラスの目くらましによって、最終的にプラスの値の得点を与えて、好意を抱いてしまうのは、人物への審美眼が甘いと思う。私なら、恫喝され、バットを投げつけられたのなら、あとからコーヒーを入れて甘い言葉をかけられても、ばっちりマイナス点を与える。

星野仙一個人の野球人としての功績は十分に認めるが、だからと言って、過剰な「美化」はバランスが悪い。いつだって野球人は、正しく認められ、正しく非難されなければならない。

(参考)「鉄拳制裁」ではない、これからのあるべき監督像のヒントは、次の記事の中にあると考えています。



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20180107/浜田雅功「黒塗り」問題で思い出したシャネルズのこと。

浜田雅功の「黒塗り」問題が、話題となっている。ワタシ自身は、その番組を見ていないし、さして興味もないのだが、ネットをざっと見る限り、「この国際化時代に、ミンストレル・ショーを彷彿とさせるような、黒塗りをテレビで流すなんて、認識が甘い」というのが、落ち着きどころなのだろう。

ワタシとしては、この前の石橋貴明の「保毛尾田保毛男」の件も含めて、「とんねるずも、ダウンタウンも、時代を席巻してから約30年、いよいよ(コンプライアンスという名の)時代の空気から見放されてきたんだなぁ」という妙な感慨を持ったのだが、それはともかく。

この件から、あることが頭をもたげてきたのである。それは、シャネルズの「黒塗り」のことだ。

鈴木雅之をリーダーとしたシャネルズ(ラッツ&スター)は、その初期、顔の肌を「黒塗り」していた。言うまでもなくそれは、黒人ドゥーワップ・コーラスグループへのリスペクトの結果であり、当時その「黒塗り」を批判した人はいなかった――と思っていたのだが。

いたのである。その人の名は、小林信彦。片岡義男との対談本=『星条旗と青春と』(角川文庫)で、かなり徹底的に批判していたのだ。以下、新年早々の「写経」。

――ぼくは、戦後三十五年間における、日本人のアメリカ誤解の一つの頂点じゃないかと思う、シャネルズというのは。

(中略)とにかく、ほんとに塗ったか知らないけど、初めは靴墨塗ったといって、朝日のテレビ欄に投書が出て、彼らは黒人を差別しているんじゃないかというと、また、それに対する反論が出て、そうではないとかという意見が出たりして、笑いました。

(中略)あれ、テレビで初めて見たとき気持ち悪かったですよ、ぼくは。気持ち悪かったというのは、気味が悪いじゃなくて、日本人の典型的な体型で、足が短くてさ、あれが手を向こうのショーみたいに動かしてね。何だろうと思ったものね。


やはり当時でも、小林信彦のように、映画やテレビ、レコードで、黒人文化と日常的に親しんできた人にとっては、「気持ち悪かった」ようなのだ。そしてその「気持ち悪」さは、どうも、日本人が、表面的に黒人のさまを真似ることへの違和感にあったようなのだ。

もう1人ご登場願う。音楽評論家・渋谷陽一。自著『音楽が終わった後に』(ロッキング・オン)で、こちらはシャネルズではなく、アース・ウインド・アンド・ファイヤーの話。彼らの音楽的な凄味を「黒人だから」と、乱暴にまとめることの違和感を語っている。

――アース・ウインド・アンド・ファイヤーを最初に聴いた時、予想もしないところから襲ってきたショックに打ちひしがれ、出て来る言葉といえば、スゴイ、圧倒的、怪物、完璧、見事といったものばかりだった。だいたい最初は何がいいかさえわからなかったのだから。

しかし考えてみれば、こうした言葉ほど無責任なものはなく、完全な批評性の放棄でしかない。つまり一見、黒人の音楽性に感動しているようでありながら、この音を黒人という特殊性の中でしか理解していないのである。

黒人なんだからリズムがいいのは当たり前、ヴォーカルだってそうだ、それに詩が見事に肯定的なのも、黒人が根っから楽観的でオメデタイからだ。こうした発想は一種の差別である。


そう言えば当時、「黒人だからスゴイ」という論、とても日常的にあった気がする。そしてシャネルズの「黒塗り」にも、その論の香りがする。

当たり前のことを書くが、その音楽がスゴイのは、「黒人だから」ではなく、アース・ウインド・アンド・ファイヤーだから、その個別の音楽家だからだ。

逆に言えば、黒人なのに歌が下手だったり、リズム感の悪かったりする音楽家もたくさんいるだろう。しかし何かそういうのを指摘しにくい、指摘すると「分かってない奴」になってしまう風潮。そういうのって「逆差別」なんじゃないか?

さらに言えば、シャネルズのデビュー曲にして大ヒット=《ランナウェイ》(1980年)も、「黒人そっくりのドゥーワップだから売れた」というより、湯川れい子×井上忠夫(大輔)による、非常によく出来た「歌謡ロック」だからこそ売れたんじゃないか(加えてパイオニアの同名ラジカセCMのタイアップの強力さ)。あの曲なら、おそらく「黒塗り」しなくても売れただろう。

黒人の歴史に照らし合わせたときの、そもそもの「認識が甘さ」に加えて、「気持ち悪い」と思われ、「逆差別」の可能性もあり、いわんや「黒塗り」しなくても売れたのであれば、やはりシャネルズには「黒塗り」しなければいけない理由など、無かったのではないか。

そう言えば、あれ以降、黒人音楽をリスペクトする音楽家は、日本にも多く出てきたが、「黒塗り」をした音楽家は、見ていない気がする。山下達郎も、大沢誉志幸も、久保田利伸も岡村靖幸も「黒塗り」しなかった。つまりはまぁ、そういうことだ。

(参考)



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