【スージー・ライティング・ショー】


(1)邦楽チルドレンとボーカル・スタイル(89/2)



● 解説

 1989年ですか。古いなぁ。丁度平成に変わった直後、例のFM東京の「ラジカル・ミステリー・ナイト」という番組に参画していた大学3年生の頃の文章。同番組が作っていたフリーペーパー「ラジカル文庫(すんごいタイトル!)」の89年2月号所収。音楽評論、というか渋谷陽一に憧れていたころの文章で、ま、何というか、ソレ系ですな。

 ちなみにこの「文庫」、私の憧れ、ナンシー関さんも執筆していたのですが、その関係で私の造語、「邦楽チルドレン」って言葉が彼女の頭の中に残っていたみたいで、ちょっと前に出た、彼女と大月隆寛さんとの共著に彼女の「そういえば【邦楽チルドレン】って言葉があったじゃない?」という発言が残されている。私、ちょっとウレシかった・・・

 とにかく、当時の私のテンションの高さが感じられる一品です。読んでみてください↓。


● 本文

 思えば日本のロックボーカリスト史(?)は、日本語を歪めていく過程であった。大滝詠一、矢沢永吉、桑田佳祐、佐野元春らが、一つの音符に言葉を詰め込んだり、カ行やタ行の発音を強めたり、また歌詞に英語を導入したりして、少しでも洋楽の雰囲気をだそうと努力してきた歴史なのである。

 で、なぜ彼らがそこまでして洋楽に近付きたかったかというと、それは勿論、彼らが感動し、触発された音楽が洋楽であったからだ。リトル・フィートが好きだった桑田佳祐はローウェル・ジョージの歌い方を日本語でやってみた。「サムデイ」の佐野元春の歌い方(曲調)はもろスプリングスティーンである。今の若いロッカーたちだって、基本的にはほとんどが邦楽より洋楽に強い影響を受けているはずだ。だからこそ、言葉を歪めた歌い方や、英語のフレーズが未だに残っているのである。

 しかし、今の邦楽ロックの聞き手の主な層である中高生は、20代(特に後半)とは比べものにならないほど、洋楽を体験していない。というよりも彼らにとっては、気がつけば邦楽ロックがそばにあったという感覚だろう。そうなればわざわざ洋楽なんて聴こうとは思わないはずだ。たとえ歌詞に英語のフレーズがあったとしても、とりあえずは意味の分かる日本語をビートに乗せてくれるロックが身近にあるのだから。

 このようにして育ってきた彼らのセンスは、未だに洋楽志向のミュージシャンたちのセンスとはかけ離れてきている。「邦楽チルドレン」がより増えるであろう90年代以降は「洋楽的カッコよさ」はもっともっと聞き手に通じなくなっていくはずだ。

 とすれば、例えばブルーハーツの方法論などがこれから主流になっていくのではないか?ほぼ日本語のみの歌詞を、意味が分かるように歌い上げるヒロトのボーカルは、今の、そしてこれからの邦楽ロックの聞き手のニーズに非常にあっていると思う。私などは「基本的に邦楽ロックで育ってきたが、少しは洋楽も聴いてきた」世代に属すると思うのだが、その私でも必要以上に言葉を歪めた歌い方や、いきなりサビで意味の分らない英語になってしまう歌詞には強い嫌悪感を覚えはじめている。歌っている本人が洋楽に憧れてきたことなんて、私(たち)には関係のないことだ。求めているのは、いきいきとした日本語のメッセージなのだ。だから言いきってしまおう。ブルーハーツに比べると、桑田や元春が生み出したボーカル・スタイルは古い。完全に古いのである、と。

 勿論、ロックが海の向こうで生まれたものである限り、邦楽ロックにとって洋楽は「前提」である。しかし「前提」は「結論」ではない。前提を簡単にくつがえしてしまうのも、ロックの持つ魅力じゃなかったか?


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