20050331/ワンステップフェスティバルのCD雑感。

また、買うべきか、買わざるべきか、悩みに悩んで買ってしまいました。ワンステップフェスティバルのCD!¥8,190…

みんな上手いな。演奏が。サディスティック・ミカ・バンドは予想に反してえらいパンクな響きだけど、その他にもトランザムとか、エディ藩とオリエントエキスプレスとか、つのだひろ&スペースバンドとか。

演奏力だけで言えば、日本のロックってもう70年代前半に高まっているね。そこからの上昇度はせいぜい微増程度。GSとワンステップフェスの差は著しい。

ただ、「日本語のロック」やニューミュージックが、まだ本格的にブレイクする前の演奏だから、実は英語の歌詞の曲が多いわけです。もっと言えば、上田正樹やデイブ平尾&ゴールデンカップスのように、洋楽カバーを披露している曲もままあるわけです。

ここで唐突にトーマスオマリーの《六甲おろし》を思い出して、その恥ずかしさから、にせオーティス・レディング風に《try a little tenderness》をシャウトする上田正樹の恥ずかしさに気付くわけですが、それはいつか書いたテーマなので。

残念なのはキャロルとシュガーベイブが未収録という現実です。絶対に絶対に収録されるべきだった。

「郡山ワンステップフェスティバル」のCDという時点で、それはもう単なる作品を超えて、第一級の「歴史的資料」なわけですよ。その意味でキャロルとシュガーベイブがいないということが、資料としての正当性を欠くという印象を受けるのです。

キャロルの権利関係を矢沢永吉が管理していて難攻不落だとか、山下達郎が自らのプロデュースではない形で過去の音源発売を許すことがありえないということは、直感的によくよく分かる話なんですけど。でも8000円払った身からすれば非常に残念なことには変わらない。

ちなみに、ワタシ的には外道のパフォーマンスがいちばんカッコよくて、キュートと感じました。究極の「歴史的資料」をあなたも。

20050326/あけましておめでとうございます。

20050321/aikoとエディ・ヴァンヘイレン。

理性=アタマは拒否しているのに、感性=下半身が求めてしまう。そういう音楽ってあるものです。買ってはいけない、また後悔するぞとジュージュー分かっていながら、買ってしまいました。aiko『夢の中のまっすぐな道』

買ってはいけないと理性的に判断するのは主にココに書いたようなことで、要するに「歌が上手すぎる不幸」というのか、歌が上手すぎるから、ポップでキュートなメロディを作ることよりも、自分の歌唱力を見せつける方向に作曲してしまう。その結果として、実験的な妙ちくりんな曲になってしまう、と。

ポップでキュートではないということはワタシ的にはほぼ決定的なマイナスなのですが、それでも感性が求めてしまうのは…声の魅力。ほぼノンエコーで粘着質のボーカル。分かりやすく言えば…イロッポイ!

あ、イキオイでちょっと恥ずかしいこと書けば、ジャケットや歌詞カードに入っているaikoの写真も(変な)色っぽさ満載。多分、aikoは関西人(だけ)にウケる「関西顔」のような気がする(男性版関西顔は浜田雅功と考える)。またこの話はいずれ。

今回も《花風》とか、かなりポップなメロディもあったりしますが、殆どは「aikoボーカル実験室の研究成果」っぽい感じ。メロディよりも「こんな変わったメロディでも、アタシ、歌えるで~」なんて自慢を聴かされている感じ。

しかししかし。何度もこの実験を聴きつづけていくと、不思議な感覚に襲われるのに気付きました。そう。「曲芸」を聴くつもりで臨めば、なかなかに快感なのですよ。

そう。エディ・ヴァンヘイレンのギターを聴くときのように。情念や叙情、意味を求めるのではなく、曲芸としてのボーカルに耳を澄ませば…あら不思議。聴き飽きない!

とは言いながらも、やっぱり次のステージにaikoが進むためには、別のアプローチも求めたいところ。職業作曲家の歌を歌うとか、カバーアルバムを出すとか。ワタシが考える現段階でのaikoのベストトラックは、ユーミンのカバーアルバム『クイーンズ・フェロー』に入っている《セシルの週末》ですから。これ本当に最高。

池永正明氏、復権確実との報も含め、野球界は、確実に確実に、いい方向に向かっている。さ、あと開幕まで5日だ!

20050314/ワンステップフェスティバルのDVDだと?

こんなものが発売されているわけです。郡山ワンステップフェスティバルのDVD!

でも、若いヤングな方々は買わないほうがいいかも。っていうのは、当時のTV番組の映像そのまま(いや、更に言えばキャロルやオノヨーコの演奏は権利関係の調整つかずで入っていない)なので、ライブ映像のクオリティは肩透かし。

その上、なぜかリップシンクもしていないし、音もヒドイ。

だから、こーいうのを買う人とは、『動くサディスティックミカバンドを観たい!』『動く外道を観たい!』とずっと思いつづけてきたミドル層の方々でしょう。つまりはオレ。

しかし、ずっとずっと頭の中で勝手に想像してきた貴重映像がどんどんどんどんDVD化されます。このサイトで何度も書いているNHKのドキュメンタリー『キャロル』や、リブヤングなんかも近いうちに観れるでしょう。そんな気がする。

それにしても、今の若いヤングな方々はうらやましい。もし過去を遡りたいっていうアナクロ願望を持った場合、すぐに、いい音で、いい映像で遡れるわけじゃないですか。これは絶対にうらやましい。

これもいつか書きましたが、溝の口の木造の部屋で、何度も何度もはっぴいえんどのLPを聴きつづけて、妄想をたくましく膨らましていたあの頃。

そんな甘酸っぱい思い出は否定しないし、否定してもしょうがないけど、でも、CDやDVD、そしてインターネット情報の充実があれば、過去を正しく遡ることができる。それは進歩だ!

しかし、画面全体にドーンと「加藤"一"彦とサディスティックミカバンド」と出るわけです。この扱いのゾンザイさ。こーいうことを知ることも日本ロックの正しい遡り方だ。

さて、ついにDVDレコーダー購入。「おまかせチャプター」機能に惹かれて「スゴ録」(RDR-HX70)を購入。はっきり言って「おまかせ…」機能も使えないし、その他も全体的にマダマダだな。

一生懸命に集め続けたVHS映像をDVD化するのが異常に面倒だ。3日間かけて、まだDVD-RW5枚(10時間分)しか出来ていない。ちょっと買うのが早かったかな?

20050305/ついに、ここまで来た。

「犯罪は大きければ大きいほど合法となる」。ブッシュがイラクの一般人をメチャクチャに虐殺しても、裁かれることはないだろう。ナルホド…と思っていた。

じゃ日本最高(最悪)の環境破壊企業、脱税企業も裁かれることはないだろう、永遠に…と思っていた。が、ソウデハナカッタ。

この本、実に痛快。

ワタシは、今回の一連の西武絡み騒動を、昨年のプロ野球再編問題とつながっているように見えて、しょうがない。

ナベツネ、ツツミがタブーではなくなった。そうなったキッカケは明らかに昨年の野球界のドタバタにある。

小関順二氏とワタシの予言どおり、状況はよくなっていく。少しずつ少しずつ。

この国も、そう悪いことばかりではない。そう信じて、明日から旅に出ます。まずは名古屋へ!

20050228/果たして、テレビ局は公共財なのか?

満を持して、2枚のアルバムを買いました。まだ聴いてませんが、かなり打率は高そう。楽しみです。

さて、一応時流に乗ったつもりで、ライブドア問題を語っておきます。でも、株とかそーいうの、よく分からないから、基本的には「勝手にやってよ」てな客観モード。

しかし、一部の政治家やマスコミから「テレビ局というのは許認可事業であり、公共財なんだから、一部の若者が好き勝手に支配してはいけないものである」なんて言説が撒き散らされていることに…納得いかねぇ!

新聞も雑誌も、もしお金がある程度あれば自分で創刊できる。ただしテレビ局やラジオ局は許認可事業だから、政府からの認可をもらわないと勝手に開局することが出来ない。これは事実。

これをもって、テレビ局の公共性と言いたいのだろうが、フジテレビ含めた民放、いやNHKも含めた全テレビ局が垂れ流すコンテンツのどの部分をもって公共的とするのか説明して欲しい(ニュースと天気予報で公共財?そんなバカな)。

噂レベルでしか知らないから断定は避けるが、FMヨコハマやJ-WAVE、NACK5などの開局認可に向けて、様々な財閥、巨大資本、政治家などが繰り広げた魑魅魍魎の戦いを聞いている。

「テレビとはCMを流すために存在していて、番組はその添え物に過ぎない」的な話を小林信彦氏が書いていたことがある。まさにその通り。公共財ではなくてスポンサーの私有財。テレビ局が公共財なんて意識は、テレビ局の連中のアタマの中に全くないと断言してもよい。

百歩譲って天気予報が仮に「公共財」たる番組だとして、そのバックに自社がプロデュース(?)するイベント(アレグリアとか)の宣伝を流すのは、「公共財」として正しいんですかね。自局ドラマの主題歌を自局の音楽番組でフィーチュアするのもどうなんですか?

と、テンション上がりましたが、実はそんな金まみれ、スポンサー本位のテレビ局という存在、嫌いではありません。むしろテレビオタクとも言える私です。でも、こんな状況になって「我々は公共的なる存在で云々」なんて唐突なウソを言うこと。それには決死の覚悟で抵抗します。

それでも「公共財」だと言い張るなら、フジテレビさん。熱心なる一視聴者である私のリクエストに即刻応えること。以下の番組を至急再放送、ヨロシク。

「ゴールデンカップスのライブ(渋谷公会堂)」「キャロル登場の"リブヤング"」「忌野清志郎が放送禁止用語叫んだ"夜のヒットスタジオR&N"」「カズ山本がホームラン打った"1996年オールスターゲーム"」…(ただし最後の2つはビデオで保存してますけど)

20050221/東大阪市出身ということの恥ずかしさ。

しかし、ブログや、mixiなどが全盛の昨今。簡単にヴィジュアリー(造語?)なサイトが作れてしまう中、こんなアナログなレイアウトのサイトを「HTML手打ち」で書いているワタシはなんなんだ? これはもう匠の世界。音楽で言えば寺内タケシやな。

さて、「南セントレア市」(本リンク最高にオモロイ)や「太平洋市」が話題ですが、ワタシはそれよりも「さいたま市」「西東京市」なんて方が問題だと思うし、正直嫌悪感を感じるのです。

なぜならば。ワタシが「東大阪市」出身だから!

「東大阪市」は、町村合併の先駆けで(確か)1966年、ワタシが生まれる年(の前後)に布施市、河内(かわち) 市、枚岡(ひらおか)市の3つが合併して出来たらしい。以下、想像。

「えー、ほな合併した市の名前どうしますか?」
「順当に行けば真ん中の『河内市』ですが、3つのうちの1つだけ残すのもどうかと思うし、なによりもイメージが悪いですな、カワチは」
「じゃ、とりあえず大阪市の東側ということで『東大阪』にしときますか・・・シャンシャン」

ぐらいの安直なまとめ方でしょう。「南セントレア市」や「太平洋市」は、いいか悪いかは別として、何か積極的に表現しようという意志はあるじゃないですか。「東大阪市」「さいたま市」「西東京市」…この安易さ!適当さ!

「ご出身はどちらで?」→「新潟県柏崎市です」「香川県丸亀市です」「福岡県大牟田市です」。地名は文化であり、歴史そのものだから、あるイメージや匂いを誘発する。

「ご出身はどちらで?」→「大阪府東大阪市です」。この空虚な感じ。無味無臭な感じ。これにワタシは38年間耐えてきたんだ!

はなわのネタで《埼玉県》という歌がある。「♪さいたま市はひらがな/みんなバカだから/漢字が全然読めしぇーん」(TVオンエアバージョン)。このフレーズには何か本質的な響きがある。さいたま市の民度やIQがどれほどのものかは知らないが、少なくとも「さいたま市」というセンスを受け容れてしまうことは決してクレバーなことではないだろう。

よし、これからワタシは「大阪府河内市出身」と名乗ることにしよう。福本豊、松井稼頭央、谷佳知という、東大阪出身の野球人(なぜかみんな俊足好打)も、どうだ?協力してくれないか?

20050214/サンボマスターについて、君に語りかける。

さて今、街で話題の音楽といえば《エロバヤシ》とサンボマスターでしょう。特に後者はあらゆるところで絶賛絶賛。私の周りもほぼ全員が絶賛絶賛。

遅ればせながら(往々にしてこーいう場合、私は腰が重い。周りの人から言われるよりもラジオで聞いて自分で判断することが常なので)、買いました。『サンボマスターは君に語りかける』。

冷静に聴いて、よく出来ていると感じます。私としてはボーカル山口君の声と、演奏力。バンプ・オブ・チキン以後の音という意味では、バンプやレミオロメン、アジカンよりもファンキーな演奏力を持っているし、かといってスクービードゥほどファンキー至上主義じゃなさそうだし。

「90年代の僕は発狂寸前で、アフロのかつら被ってソウル演んのがなんでオシャレなんだよ!?ひとつも偉くないよ!とスゲェ怒ってましたね。」(山口氏発言・bounce 2005/1-2)

なるほど。面白い!

ひとつだけ気になるのは・・・といいながらまたナナメから見ちゃうわけですが・・・今、この2005年の2月半ば段階で、サンボマスターについて騒いでいる人たちの顔ぶれです。

渋谷陽一、高田文夫、松尾スズキ、水道橋博士、眞鍋かをり・・・。誤解をまったく怖れずに言うと、インテリ。インテリが久々に騒いでますね。眞鍋嬢をインテリと呼ぶのはどうか、という人もいるでしょうが、この人、文章見る限りかなりりキレ者ですからね。

主にインテリが騒ぐのは歌詞の独特の風情のせいでしょう。例えば『君に語りかける』のライナー、北沢夏音という人のお疲れさんな文章。太宰治、岡林信康、はっぴいえんど、URC、ニューミュージックマガジンの視点からサンボを語りたおしているわけです。この業界は相変わらずだ。

例えば、そのライナーのタイトル。"サンボマスターは昨日の廃墟を打ち捨てて今を生きろよと君に語りかける"。はい。句読点をつけようね。

例えば、サンボマスターは"パンクロックから山下達郎への初の回答"だとも。な、何?

ちょっと難しい、一見古めかしい、文学的な"日本語"遣いを歌詞に入れれば、往々にして簡単にインテリが騒ぐものですが、そんなところから、変に知的な"サンボマスターをどう語るかごっこ"や"サンボマスターの歌詞深読みごっこ"がインテリの中で流行ってしまうと、ソレは多分彼らの価値の矮小化につながるでしょう。

「小沢健二に見る90年代の若者の意識分析」なんてクダラナイ文章が撒き散らされて、優れたポップスクリエーターが一人、死んでいったように。

だから、もうちょっとニュートラルに行こう。だから私は『はねるのトびら』の「ブサンボマスター」を推す。

追記:世の中、本質を分かっている若者もいるもんです。元気付けられます。

20050208/I'm not loving it!

内輪ウケの曲ですけど、公開しちゃいます。ココ。ギター2本だけでなく、ベースギターも久々に手弾き。ボーカル含めて、すべて一発録り。疲れた~。

さて。久々にヒマネタを。この前、ジョンレノンを使ったCFの話を書きましたが、同じような理由でファーストフードM、うーむイニシャルトークも不自然だ…マクドナルドもCFもなんだか気になるのですよ。"I'm loving it! "ってやつ。

もうこのコトバ遣いからして、ちょっとアレですよね。アレってなんや? えーと、ネイティブの英語っぽいっていうか、「学校英語じゃないよ。もっとクダけてるワケよ」みたいな感じ。

で、日産とマクドナルドのCMの共通項は、ひどく論理的っていうか、メッセージがクリアっていうか、なぜその表現なのかという理由が説明しやすい感じ。

それは悪いことではないと思います。基本的には。ただその背景っていうのが問題で、要するに「ガイジン(つまりは白人)に説明してオッケーのはんこをもらっているんだろう」ということ。論理的なのもそれそのものが目的ではなく、ガイジンに説明することの結果的産物なんだろうと思う。

そして、話がやっかいなのは、そんな「外資系っぽさ」みたいなものを、ワザと強調している感じもすること。日産のCFはキャストがほとんどガイジンだもんね。

何が言いたいかというと、いつのまにかいろんな企業がグローバル化したり、外資系が増えたりなんて背景の中、白人カルチャーへの植民地化がどんどん進みすぎていないか、ということ。

単なるカッコヨサとか、そーいう気分的なもので支持される白人カルチャーは、まだ救われるが(=ゴールデンカップスなど)、"経済の論理"を背景とすると、なんだか気持ち悪い。

こんなことを書いたときもありましたが、その想いは続きます。

20050130/世界は、愛で変えられる。と思ってしまった。

70年代の後半から80年代前半の大阪河内では「パチキ」と言いましたね。「パチキ」。これは頭突きのことだけでなく、頭の剃り込みのことも指していました。

そんな言葉だけでなく、在日コリアンの問題も非常に身近な問題でした。

それから20数年経って、ワールドカップ2002があって、ヨン様、ジウ姫、ユンソナ、BoAという時代。一見、そこはかとない「解決した感」がありますが。

しかし反面、拉致問題もあるわけです。

拉致に関して北朝鮮に酌量の余地など無い。これは明らか。でもここで、あの映画のある意味クライマックスと言えるあの台詞をいまいちど考えてみます。

「お前、生駒トンネル作ったんは誰か知ってるんか?」

生駒トンネルとは大阪と奈良を結ぶ近鉄のトンネル。私が遠足とかで日常的に通り抜けてたトンネル。で、この台詞で主人公は大事にしていたフォークギターを川に投げつけるまでに動揺する。

戦前における日本のコリアへの侵略と、拉致問題を天秤にかけようというのではない。どちらにも全く酌量の余地など無い。相対的に捉えてはならないと思います。

ただし、否、だからこそ、我々の国がかつてあの国に確かに「しでかした」ことを、このままウヤムヤしつづけるのは、あまりにもバランスが悪いだろう?

つまりは「解決した感」はかりそめのものだと。だからこの映画はいまでも説得力、問題喚起力を持つわけです。

チネチッタ川崎で見おえて、感動が途切れずに、38歳のオッサンが泣きながら川崎駅に向かうと。なんという恥ずかしい、とんでもないことなんだ? もう本当に勘弁してくださいよ(笑)

最高です。

追伸(1):オダギリジョー(ハイカラ好きの設定は加藤和彦へのアナロジーですね)以外の役者にビッグネームがいないことにはかえって好感が持てる。その中では揚原京子が秀逸。南果歩のラインに進みそう。

追伸(2):あえて注文をつければ(監督が井筒和幸にも関らず)、若者たちの関西弁がイマイチ。あと、おすぎをCMに使ったことはあらゆる意味で減点対象。

追伸(3):チネチッタのアドシネ(上映前の広告)はなんと10分間。長過ぎ。そのうち半分が「2005年"夏"公開」。先過ぎるがな。

20050124/"ワン・モア・タイム"をワン・モア・タイム。

『学校へ行こう』の新コーナー「クラブ・パイレーツ」がおかしくて、そこに出てきてて、かつテレビ神奈川の『キャナガワ』(なんちゅうタイトルや)でも光ってた椿鬼奴を推します。そんな冬の日。

ゴールデンカップス"ワン・モア・タイム"をまた観るために行きましたよ。本牧MOVIX。カップスを観るのなら最高のロケーション。あと、カップス・マイ・ブームが続いてて、いろいろ確かめたいこともあったので。

テアトル新宿より音がかなりいい(多分)ので、後半(side B)も引き締まった感じがしました。そして2回目ということもあり、いろいろ考えながら観ていました。

無料で入れる写真展まで行きました。チープで良かった(笑)。

思ったことは、カップス的方法論の限界、というか、もっと平たく言えば「カップスがアメリカ音楽のコピーで留まってしまったことの限界について」。

当然、メンバーそれぞれの実力は抜群なわけで、ルイズルイス加部の実力はいまの日本でも通用する(当時なら世界に通用した)と思います。

ただし当時のライブでは殆ど向こうのコピーをやっていたわけじゃないですか。それがもったいないというか、なんというか。

例えば今、中国雲南省からリップスライムをほぼリップスライムと同じように日本語でラップする5人組が出てきたとして、それはカッコいいことなのか?という視点。

当然、日米の音楽格差がいまよりも大きかったことは分かっている上での話ですが、やっぱりサルマネはサルマネに過ぎないわけですよ。

だからカップスの音楽は、ひいてはカップスという存在自体は、どこか切ないのです。今回分かったことはソレ。

逆に《銀色のグラス》《愛する君に》などの和製R&Bのカッコよさに当時彼らが気付いていたら、歴史は変わってたとも思いますね。

横山剣氏によると、ロンドンのクラブで《銀色のグラス》がかかって、ロンドンの若者が狂喜したという・・・コレハイイハナシダトオモワナイカ?

で、カップスのことを考えて、はじめて「日本語ロックの始祖」としてのはっぴいえんどの価値もわかる。カップスに憧れながらも、洋楽と"ザ・芸能界"な価値観を一生懸命ミックスさせつづけたスパイダースの価値もわかる。

そんな、「日本ロックヒストリーのサブテキスト」としてのゴールデン・カップス。みなさんも本牧MOVIXにて。是非。

以下余談。ルイズルイス加部の(約40年前の!)ベースプレイに触発され、《銀色のグラス》のベースのコピーにトライ。で、"ベース用の大きなピック"を買おうと横浜駅周辺の楽器屋を散策。だが、でかいベースピック見当たらず。

もしやベースピック、最近はもう廃れてしまったのか?

仮説(1):指弾きが主流になった。仮説(2):ベースにも小さ(くて硬)いピックをみんなが使いはじめた。仮説(2)を信じ、小さくてぶ厚いのを購入。カップスのみならず、私のギター知識もそれ相当に古いようだ。

20050117/スキップビート・ジェネレーション。

大学のゼミの同窓会。30代後半になったオヤジ5人の邂逅。

子持ち4人。海外赴任経験者3人。転職経験者2人。単身赴任中1人。みんな、それぞれの人生を生きている。いろいろなことを抱えながら。

「もしかしたら、何も変わっていないのは自分だけ?」と思う。上で数えている人数、どれにも入っていないのは私だけ。

1989年の「ゼミ合宿」の映像を、DVDにダビングし、プラズマテレビで見る。KUWATA BANDの《スキップビート》を、BOφWYの《ONLY YOU》を歌っている自分の姿。

あれから。バブル経済が崩壊し、コンピュータと携帯電話が普及し、世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んだ。

でも。私たち5人は…確かに、したたかに、生きている。

「ひのえうま」は、「新人類」は、「バブル入社」は、「ファジー世代」は…確かに、したたかに、生きているんだ。

だから、40歳を超えても、50の声を聞いても、リタイアしても、《スキップビート》を歌っているだろう。私は。そう、私たちは。

20050110/M-1グランプリ2002のDVDは犯罪的だ。

久々に激怒。単刀直入に激怒理由を。M-1グランプリ2002のDVD、優勝したますだおかだのネタ(最初のネタ)、一部カットされている。

実はオンエア分をビデオで保存していたので、カットされたところが分かるのだ。どうだ吉本?朝日放送?世の中にはこういう視聴者がいるのだ。

で、カットされているところは、チャゲの頭髪の薄さをいじるネタと、ドリカム西川の覚せい剤事件に関するネタ。もしや、吉本/朝日放送の自主規制? だとしたら情けない。

チャゲネタ:「(チャゲの頭髪に関して)♪余計なものなどないよねー」「あれ帽子取ったらSAY YESやで」「(頭を押さえながら)♪誰にも知られたくないー」・・・西川ネタ:「まさか未来予想図が刑務所とはね」「うれしはずかしムショ帰り」「"ラブラブラブ"やなくて"シャブシャブシャブ"やん」「(腕に手錠がかかっている振りで)♪ねーどうしてー・・・」などの、かなり濃いますだのボケがすっかりカットされている。どういうことだ?

あと、2001のDVDにおける、最終決戦のハリガネロックもカットされているはず。私がいちばん好きなネタ、ユウキロックの「『マッチ売りの少女』は古い。これからは『少女売りのマッチ(近藤真彦)』や」という部分が(多分)削除されている(こちらはオンエアビデオが無いので推測)。

ますだおかだは、マジで吉本を訴えるべきではないか? 漫才、落語などの形式(その場限りの勝負)で、一部が編集・カットされているということは、音楽の2コーラス目カットなんてことよりも、もっと重大な問題のはず、でしょうから。

ちょっと検索かけてみたところ、この件を指摘しているサイトが無いようだったので、ある種の使命感もあり、ここに書いておきます。あと、漫才を、ますだおかだを愛する人なら、このDVDは買うべきではないということも。

追伸(1):、『タイガー&ドラゴン』、観ました? 『ぼくの魔法使い』『マンハッタン・ラブストーリー』『木更津キャッツアイ(映画)』での、ちょっと残念な感じを補って余りある快作! クドカンは連ドラよりも、映画よりも、2時間単発が似合うのか・・・とにかく最高でした。

追伸(2):オレンジレンジの曲《以心電信》。タイトルだけの話だが20年前にYMOが同名の曲を出している。「以心伝心」ではなく、それをモジった《以心電信》。こーいう"レトリック系"のタイトルがダブるのはかなりダサいことと思う。オレンジレンジに非があるのではなく、取り巻きの大人たちがちゃんと教えてあげないと。

20050105/ジョンレノンを使ったCFはイタい。

大晦日は、世の中がマツケンサンバや格闘技にハマっている中、チャンネルNECOのグループサウンズ映画特集を堪能(1966年のスパイダース。演奏上手い!)、年が明けてからは、全ての番組で新ネタを披露する波田陽区に感心しながら、1/3深夜の『ウンナン芸人道祭り』(TBS)で100万円を獲得した安田大サーカスの、最後の「サイレント」ネタに昇天した。すごかった。そんな年末年始。

というわけで、今年もブログ的体裁をとりながら、身辺雑記ではなく、可能な限り不特定多数相手の「ニセ小林信彦」モードで。よろしくどうぞ。

あるクルマのCFでジョンレノン《スターティング・オーヴァー》が使われてて、それも、いかにも余裕かましてる40代(?)の夫婦のデュエットというかたちでフィーチュアされていることについて。私ちょっとイタいんですけど。

その"イタさ"の理由について・・・ここからの話は複雑ですよ。ちゃんとノートにメモしながら聞いてください。

(1)まず、余裕かましてる40代にはジョンレノンという構図。これがすごく単純でどまん中過ぎると思う。それも《スターティング・オーヴァー》とは・・・。つまりは発想が薄っぺらい感じがする。

(2)その薄っぺらい感じというのは、要するに「愛と平和のジョン・レノン」的な捉え方が見え隠れするからで、もうそういうプロトタイプなジョンレノン・イメージは20世紀に捨ててくるべきだったというのが(元渋谷陽一チルドレンとしての)私の基本スタンス。

(3)とはいいながらも、私自身が「愛と平和・・・」以上の認識を伴った、もっと深い"ジョン・レノン愛"を持っているかと問われると、実はそうではなくって、むしろアルバム『イマジン』以降は、かなり乱暴で粗雑な作品ばかりじゃないかと思うわけですよ。

(4)つまり「愛と平和のジョン・レノン」と思っている人間も「敵」と思うし、「バカヤロ、ジョンは"愛と平和の天使"じゃなくってよぉっ」と、ラムコーク飲みながら憤るロックバーのオヤジ(多分ニールヤングも好き)も、一見「味方」のようでいながら、やっぱり「敵」。

(4)'ちなみに、そもそもジョンレノンを「ジョン」と呼ぶことにすら抵抗アリ。

(5)そんな、なんだか屈折しまくった感情が、あのようなアカラサマなCFを観ていると一気に押し寄せてくる。つまりはCFにもイタいし、自分自身にもイタい。

それこそ人生をかけて、一生懸命、客観視(渋谷陽一語でいう"対象化")しようと努力してきたジョンレノンなのに、いや「だからこそ」、あまりにもアカラサマなCFひとつで、またいろいろとややこしいことを考えてしまうわけです。

だから、おねがいだから、そっとしておいてくれ。代案なら何曲でも考えるから(ポールマッカートニーの《Silly Love Songs》でどう?)

今年もよろしく。



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