20120624/G・Dグリーンバーグ教授著『日本は、』が静かなブームに。

5月13日の記事でご紹介しました、スージー鈴木編集協力、石黒謙吾編集、G・Dグリーンバーグ教授著の『日本は、』が、いくつかのメディアに取り上げられ静かなブームになっているようです。

週刊『SPA!』(6/12号)では、カラーの書評欄においてトップの扱いで大きく取り上げられたようです。

『週刊ポスト』(6/22号)でもこのように書評欄で扱っていただきました。

その他、グリーンバーグ教授の地元、埼玉のFM NACK5、 『大野勢太郎 HYPER RADIO』でも好意的に取り扱っていただいたと聞きました。ありがたいことです。

教授本人も言っていますが、「書籍広告を殆ど打た(て)ない本」なので、扱っている書店も多くはなく、またそもそもその内容的に、どの棚に置かれているのか分かりにくい本でもありますので、買うのも一苦労かも知れませんが、ぜひ、よろしくお願いいたします。

装丁からは、政治論、米国論に溢れたお堅い本というイメージですが、なかにはかなりサブカルチャーの細かいところに入った至言もありますので、それ方面がお好きな方もどうぞ。たとえば…

70年代の筒美京平は歌謡曲のイントロに自立的な価値を与えた。南沙織「17歳」、尾崎紀世彦「また逢う日まで」、平山三紀「真夏の出来事」。どうだろう?すべて華麗なイントロが聞こえてくるはずだ。

たしかに!



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20120616/ナンシー関がいなかった10年間。

さる6月12日は、ナンシー関が亡くなってちょうど10年となる日。ワタシが「 20020613/合掌(2)、またはナンシー氏の正しい葬り去り方について」を書いてからちょうど10年ということだ。

そんな絶妙なタイミングで発売された『評伝ナンシー関~心に一人のナンシーを』が抜群に面白く、ひさびさに一気に読み通す本となった。

ナンシー関。説明不要だろう。ワタシの気持ちを端的に表現すれば―――「ナンシー・ザ・グレイテスト」。

さてこの本は、関係者へのインタビューや、故郷青森探訪などにより、ナンシー関の生い立ちからその死までを伝記的に追う作品。彼女本人による文章からの引用が多く、「ベスト・オブ・ナンシー関」という趣があるのもよい。入門編としても好都合だ。

たいへん面白かったという前提の上で、2つほど文句がある。

1つは「サブカルチャー」という言葉の多用だ。文中で、ナンシー関と彼女を核としたムーブメントをやたらと「サブカルチャー」と評するのだが、これは読者に本質を見誤らせるキッカケになりそうだし、なにより気持ち悪い。

いや、80年代後半、いとうせいこうやえのきどいちろうらとの一団を「サブカルチャー」と評するのは合点がいくのだが、90年代以降、彼らと距離を置いた(ように見えた)彼女のコラムは、「サブカルチャー」などといううさん臭いレベルを超えていたのではないか。

「サブカルチャー」という言葉をワタシは好きではない。使うときはあるニュアンスを込めて使う。なぜなら、その言葉が持つマイナー志向、辛気くささが苦手なのだ。

『週刊文春』『週刊朝日』という二大誌でテレビ評を書いていた「全盛期ナンシー」は、立派にメインカルチャーの舞台に立っていたのだ。だからちんけなレッテルを貼って彼女の功績を矮小化するのはよした方がいい。

さて、本の中でいちばん印象に残ったシーンは高校時代の話である。青森の私立の女子校。学校が終わると彼女は友人と、まず本屋で二時間ほど時間をつぶし、「サブカル」雑誌を買い、そして電気屋でYMOのビデオをひとしきり観て帰宅していたというくだり。

このYMOのシーンがいい。とてもいい。映画にしたいくらいだ(どうでもいいことだが、そのとき主演は成海璃子にしたい)。

雪深い青森の商店街の電気屋、ウインドウごしに《Cosmic Surfin'》を演奏するYMO。細野晴臣がはじけるようなベースを奏でている。それをじっと見つめる少女、関直美。

津軽の国から見つめた、ブラウン管の中の東京。彼女のテレビ評は、誤解を怖れずいえば、そんなブラウン管の中の世界が中山秀征や渡辺満里奈によって汚されていくことへの抗議行動である。

と、彼女の後釜(山田美保子)の後釜としてTVブロス「ブロス探偵団」の無署名コラムを書いていたことがあるワタシは、そう思うのだ。

そんなことを考えながら、ナンシー関がいなかった10年間が終わった。

あ、もう1つの文句を書くのを忘れていた。タイトルが良くない。副題「心に一人のナンシーを」は大月隆寛の言葉なのだが、語呂が悪い。コピーとして上手くない(そのうえ当時、ワタシは大月氏のことが嫌いだった)。

っていうか、この時期にこの本を出すのにあまりにふさわしいタイトルがナンシー関の別著にあるじゃないか―――『何をいまさら』!



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20120610/40年前のレコード大賞にしびれた夜。

どうも最近頭の中が歌謡曲のことで占められている。昨夜もちょうど40年前(1972年)に開催された「第14回レコード大賞」のビデオを観て盛り上がってしまった。

写真は「歌唱賞」(レコード大賞の候補者)に選ばれた5人。ちょっと見にくくて恐縮だが、手前から高橋圭三(司会・黒)、小柳ルミ子(《瀬戸の花嫁》・赤)、五木ひろし(《夜汽車の女》・黒)、和田アキ子(《あの鐘をならすのはあなた》・白)、ちあきなおみ(《喝采》・黒)、森光子(アシスタント・白和服)、沢田研二(《許されない愛》・橙)。

まず、このため息の出るような5人・5曲のラインナップはどうだろう。そしてまた、芸能エリートの小柳、沢田に五木、ちあきという苦労人が挟まれ、中央に、当時としてはおそろしく背が高い174cmの和田アキ子がそびえるという並びもまた美しい。

まずは小柳ルミ子《瀬戸の花嫁》。宝塚音楽学校を首席卒業の堂々たるファルセットを聴かせる。下馬評ではレコード大賞確実と言われていたようで、事実、ライバルアワードである日本歌謡大賞は手中におさめている。

次に五木ひろし《夜汽車の女》。ラインナップの中でこの曲は最も無名と思われる(ワタシも知らなかった)。《待っている女》に続く藤本卓也作曲の「ロック演歌」でなかなかの珍品。翌年《夜空》でレコード大賞を取る助走期と言っていいだろう(埋め込みコード無効なのでこちらで聴かれたい)。

言うまでもなく《あの鐘をならすのはあなた》は大傑作。結局この曲で和田アキ子が最優秀歌唱賞に選ばれるのだが、そのとき沢田研二を連れ添って大泣きするシーンはあまりに有名。冒頭の低音の部分は緊張で不安定も、サビでは身体全体がパワーアンプになったような怒濤の歌唱を見せつける。実はこのころが和田の最盛期と思う。

しかし、この曲の傑作性は和田の最盛期のボーカルによるところも大きいが、それ以上に、この時期に和田にこのような「ゴスペル歌謡」を提供した森田公一の才能を評価するべきだと思う。

次なる、ちあきなおみ《喝采》の素晴らしさについてはここでは触れない。ただ、真心ブラザースの桜井秀俊によるちあきのボーカル評があまりに素晴らしいので引用しておく―――「ノドにオーバードライブが内蔵されている」

最後の沢田研二《許されない愛》は言わば「プログレ歌謡」。これはここからのあまりに輝かしい歴史の序章に過ぎない。ただあの、何とも艶っぽい声質の片鱗は十分に見せつけてくれる。

最終的に、下馬評が高かった《瀬戸の花嫁》を出し抜いて《喝采》がレコード大賞に輝く瞬間、これは日本歌謡史のピークだと思う。

この年新人賞で郷ひろみと麻丘めぐみ、大衆賞として天地真理が選ばれていて、つまりアイドル時代の布石はもう打たれている。また同時に新人賞で森昌子がノミネート。つまり『スター誕生』の時代、それによるナベプロの瓦解の足音が近づいてきている。そして翌々年の森進一《襟裳岬》、その翌年の布施明《シクラメンのかほり》で歌謡曲とフォークとの融合が図られていく。

アイドルポップスへ、『スター誕生』へ、フォークソングへ。これは狭義の「歌謡曲」が解体されていく経緯だ。

狭義の「歌謡曲」。それは、スナックで水割りを飲みながら大人の色気と妖気を漂わせたプロフェッショナルなボーカルを愉しむ音楽。そんなザ・歌謡曲の頂点に輝くちあきなおみ《喝采》!

というわけで最後に一言だけ。最近カバーブームで、色んな歌手が《喝采》をカバーしているが、どれほどの覚悟を持ってのことなのだろう。ワタシに言わせれば、もし本当のプロフェッショナルなボーカリストなら、《喝采》なんて怖くて怖くてカバーではないと思うのだが。

40年前に形作られたザ・歌謡曲の頂点。それはたぶんスカイツリーよりもはるかに高いのだから。



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20120603/ザ・ベスト・オブ・「週刊スージー」

あるキッカケがあり、過去13年にわたるこのサイトでのベスト記事を選んでみました。この長い道のり、激動の時代を振り返るいい機会だと思いましたので、もしよければ(再度)ご高覧いただければと思います。では。

【音楽編】

20120219/岡村靖幸を笑うな!
20120115/不定期連載「世界一簡単なギター教則本」第1~2回
20111226/やっぱり沢田研二のように生きていきたい(沢田研二コンサート評)。
20111016/加藤和彦の自害から二年なのにワタシはまだこだわります。
20110903/岡村靖幸の最高傑作『靖幸』のこと。
20110502/キャンディーズから観る日本ロック史。
20110214/勝手な聖者達~ミスター・シンドバッド。
20101128/和田アキ子に植村花菜を批判する権利があるならば。
20101002/ロックンロールとしての吉田拓郎。
20100731/『風街ろまん』は本当に日本ロック最高の名盤なのか?
20100613/2010年の「ドアノック・ダンス」。
20100220/週刊文春『80年代懐かしの邦楽名盤』批判。
20091017/「一番背の高い日本人」のこと。
20081207/沢田研二の相対性理論。
20080526/サザン活動停止?何じゃそりゃ?
20071110/1984年の《HELP》、2007年の《HELP》。
20061030/ミカ・バンドの再結成が、なぜ不愉快か。
20030804/岡村靖幸への手紙。

【野球編】

20120122/羽曳野のダルビッシュくん、テキサスに行く。
20111210/「静岡DeNAベイスターズ」を構想する。
20111030/ドラフトにまつわる高潔な言葉たち。
20110725/福島の避難所で観たオールスターゲーム。
20101115/ワタシがマリーンズを好きになった理由(日本一に寄せて)。
20100323/「バファローズ」消滅を心から歓迎する。
20100206/新球団「松山ポンジュース」構想。
20100109/オリックスの復刻ユニフォームに絶対反対。
20090927/千葉マリン「横断幕問題」について。
20090829/拝啓、堂林翔太さま。
20060614/後藤光尊くん、背番号1を返上したらどうかね?
20051219/仰木彬を殺したのは誰だ。
20040309/問題をウヤムヤにする装置としての長嶋。

【演芸編】

20111218/「THE MANZAI 2011」総括~漫才の番組ではなく、番組の中の漫才。
20110211/佐久間一行の知性について。
20101228/M-1通史~画面の向こうで起きていたすごいこと。
20101221/今年のM-1の審査員はワタシだ。
20100228/R-1のルールをこう変えればいい。
20091003/『キング・オブ・コント』必勝法。
20090725/誰か島田紳助を止めてくれないか。
20081026/爆笑問題太田とますだおかだ増田との間に。
20071224/パンクからニューウェーブへ~M-1 2007観戦記。
20051127/太田光を殺さないで。
20050110/M-1グランプリ2002のDVDは犯罪的だ。
20030616/なぜ「ネタ」をやらせないんだ?

【その他編】

20120226/「カーネーション」に見る「大阪最強時代」。
20110519/「あゝ素晴らしき二十世紀」
20110221/ビートルズを大阪弁に訳そう。
20100925/彼らが教えてくれた。
20100905/いとうせいこうを好きすぎた頃。
20100717/難解な文章を捨て去る勇気を。
20100219/Gag of the decade=『欧米か!』
20090905/男の子ものがたり。
20081123/手紙~拝啓、十五歳の鈴木君へ。
20080114/二十歳のころ。
20050418/アメリカと中国から遠くはなれて。



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20120528/「広島風ボーカル」の歴史的意義について。

広島に行ってきました。そんなに時間が無く、昨夜マツダスタジアムのナイターを観て、今朝ホテルから広島市民球場跡まで散歩しただけで終わったような短期滞在でしたが。

たまに旅をすると、その地に関する歴史がいろいろと妄想のように浮かんできます。まるで目の前で以下のような状況が展開されているような妄想……

―――衣笠祥雄がスポーツカーに乗り付けて市民球場に向かっている。やせこけた山本浩二が泣きそうな顔で素振りをしている。高橋慶彦がオーナーに喧嘩をふっかけている……ような気がした。

―――マッシュルームカットの吉田拓郎が女の子を数人引き連れて闊歩している。詰め襟の奥田民生が喫茶店でビートルズのコード進行を語っている。そして高校の卒業証書を破れ捨てた矢沢永吉が広島駅から東京行きの夜行列車に乗りこんだ……ような気がした。

そこであることに気付いたのです。広島出身のボーカリストの系譜、吉田拓郎(1946年生)、矢沢永吉(1949)、浜田省吾(1952)、西城秀樹(1955)、吉川晃司(1965)、奥田民生(1965)。なんか歌い方が似てませんか?

声質はちょっとハスキーなガラガラ声で、破擦音をワイルドに強める発声、ビブラートをあまりつけず声を喉から押し出すような歌い方。これを仮に「広島風ボーカル」と名付けます。ちょっとお好み焼きみたいですが。

広島出身者以外でもたとえば萩原健一や鈴木ヒロミツ、桑田佳祐にはちょっと広島風の味わいがありますが、それ以外の沢田研二、加藤和彦、大滝詠一、山下達郎、佐野元春……など「関東風」「関西風」のあっさりした味わいに比べたらやはり「広島風ボーカル」の味付けは独特の脂っこさがあります。

なぜ「広島風ボーカル」が生成したのか。今日一日考えてみたのですが、よく分かりません。憶測すると、吉田拓郎はボブ・ディランのダミ声の影響が強かったでしょう。そしてその弟子筋の浜田省吾は吉田拓郎の影響が濃厚。

矢沢永吉は、デタラメ英語で作った歌詞を日本語に置き換えるという方法に則っていたので「矢沢が考える英語」風に日本語を歌ってみたという感じだと思います。奥田民生の矢沢永吉好きは割と有名でなので影響は強いはず。

西城秀樹はよく分かりませんが、トム・ジョーンズなどの洋楽の影響が強いとしたら矢沢永吉と似ている。吉川晃司は「広島風」の中では佐野元春影響下のあっさり風味が強いのでここでは措くとして。つまり「脂っこい歌い方が広島だけで生成した理由」は一律的なものではなさそうです。

ただひとつ重要なのが、「広島風」のおそろしく豪華なラインナップです。人口比で考えると関東や関西に比べて、「優秀なボーカリストの発生確率」が非常に高いことが指摘できます。さらに言えばその結果として、「関東風」「関西風」に対する第三勢力として、日本語ロックのボーカリゼーション(歌い方)に対して異常に大きな影響を与えているということ。

つまり、「関東風」「関西風」だけでは、日本語ロックのここまでの隆盛は不可能だったのではないか。日本語を脂っこくビートに乗せる「広島風ボーカル」こそが日本語ロックの歌い方を規定したのではないかとさえ考えるのです。

「広島フォーク村」でアマチュア時代の「よしだたくろう」がカレッジフォークの向こうを張ってダミ声で歌ってみた瞬間。「たくろう、その歌い方かっこいいけん、これからそれで歌いんさい」とみんながはやし立てた瞬間、日本語ロックの歴史がクグっと動いた―――とまた妄想してしまいます。



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20120520/日本語ロック第1号はスパイダースの《ヘイ・ボーイ》である。

あるバンドのゲストとして昨夜、スパイダース《ヘイ・ボーイ》と沢田研二《おまえがパラダイス》を歌わさせていただきました(関係者の皆様、ありがとうございます)。

さて、演奏して歌ってみないと分からないことがたくさんあります。今回《ヘイ・ボーイ》をチャレンジして分かったこと―――それは、日本語ロック第1号は《ヘイ・ボーイ》であるということです。

「日本語ロックははっぴいえんどから始まった」論調は非常に乱暴で。ここでも書いたように、いくつかの要素の総合評価(数え満貫)としてはっぴいえんど『風街ろまん』を推すのは十分理解できるのですが、だからといって『風街ろまん』を日本語ロックの起源とする考え方には納得しかねます。

はっぴいえんどやジャックスを極端に重んじるという姿勢は、『レコードコレクターズ』誌的な、貧乏くさく辛気くさく汗くさい、くさいくさいくさいロックジャーナリズムの史観。東京出身の大学卒による陰気なロックを有り難がる(そして吉田拓郎や矢沢永吉を軽んずる)偏った視点だと思います。

さて、《ヘイ・ボーイ》。まずはA→D→Em→Dという循環コード。おそらく原曲は《ヘイ・ボーイ》発表(1966年)の前年、1965年のヒット曲、The Ad-Libs《The Boy from New York City》だと思われます(「ボーイ」と「うーわうーわ」の符合)。

と書くと、なんだいパクリかよ、との意見が出てくるかも知れませんが、1966年の段階で(1)《The Boy from New York City》を知っていて、(2)そのコード進行を分析し、(3)さらには加工して自作の曲を作る、ということがいかに凄いことかを想像してみて下さい。いわく、かまやつひろし氏の先見の明。

そしてメロディは《The Boy from New York City》よりももっとアイデアに溢れていて、「♪かどのむこうに消えちゃった」のC→D→Cはとてもソウルフル(0分23秒~0分28秒)。そしていちばん重要なことはサビ後の「♪これからどの娘と会うのやらー」のBm→F#mです。

「A→D→Em→D」「C→D→C」とやたらと黒いコード進行にしておいて、しかしサビ後で平行調のF#mに落ち着かせ、そして「♪これからどの娘と会うのやらー」の土着的・わらべ歌的(!)、メロディを置く(0分36秒~0分42秒)。

何が言いたいかというと、単なる洋楽サルマネではなく、それを1966年の日本の空気に寄り添わせようという工夫と冒険があるのです。スパイダース風に言えば、「リバプール・サウンド」に比肩する「トーキョー・サウンド」を作ろうという意志がこのわらべ歌フレーズに垣間見えるのです。

(ちなみにこの黒いコード進行に平行調をかませるという手法は彼らの名曲《メラメラ》でも使われています)。

いろいろ資料をあたってみると、スパイダースは本気で海外進出を考えていたふしがあります。特に《ヘイ・ボーイ》を発表したころは、「トーキョー・サウンド」を世界に問おうという意志に溢れていたようです。つまり「俺たちはビートルズもキンクスもソウルも知っている。でもこのF#mがトーキョーのロックなんだ。聴いてみろ」という感じだったのでしょう。

今の日本には流ちょうな英語で黒人のように歌える歌手がとても増えています。でも彼らがアメリカで成功したという話は殆ど耳にしません。なぜならばそれは「A→D→Em→D」「C→D→C」であってF#mではないからです。ホンモノの洋楽の国で「東洋人による洋楽もどき」を選ぶ理由はないという当然の結果です。

……と、こんな話がいくらでも書けるぐらい《ヘイ・ボーイ》の意義は深いのです。というわけで―――それは、日本語ロック第1号は《ヘイ・ボーイ》である。



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20120513/スージー鈴木presents、G・Dグリーンバーグ氏の新刊ご紹介。

今日は不思議な本の紹介です。実はこの本の「協力」としてワタシが関わっています。いや厳密には「仕掛け人」がワタシなのです。

そもそもは数年前、ワタシが授業を持っている大学(早稲田大学スポーツ科学部)のある会合でこの老ガイジン教授氏と知り合い、野球の話で意気投合。

そこから少し疎遠になっていたのですが、2010年のクライマックスシリーズ1st Stage、西武ドーム、埼玉西武=千葉ロッテの一塁側スタンドで再会。

「戦後日本におけるアメリカの功罪について」、「ダルビッシュと涌井の違いについて」、「作曲家としての吉田拓郎の才能について」と、幅広いテーマについて話せば話すほど面白く(氏は日本語ペラペラ)、こういう人がいるのかと驚いたのです。それも老人で、しかもガイジンで。

ただ普通ならこのまま知り合いの1人で終わる話なのですが、そこで起きたのが例の大震災、原発事故。あれを期に、氏が急にツイッターを始めたわけです。原発からアメリカから、AKBまで、あらゆる事象に関する大量の分析的ツイートを発信しはじめたのです。

そのひとつひとつが面白いので丁寧にリツイートし続けていたら、『盲導犬クイールの一生 』や『ダジャレ ヌーヴォー~新しい駄洒落~ 』で有名な石黒謙吾氏(我が師匠)が反応。そこからはとんとんと、3人でビールを飲み、しつこく吉田拓郎話で盛り上がり、そして出版が決定という流れ。

内容はといえば、一言で言えば、「サウス・カロライナの本多勝一、あ、小林信彦、いやナンシー関も少し…」。三言ですね、すいません。

「何度も繰り返すが脱原発がなぜイデオロギーの問題にすり替えられる?原発が危ないということなんて思想上の問題なんかじゃなく自然科学上の事実じゃないのか」

「『島田紳助のこのひと言で100人のうち99人が前向きになれる』という本の広告を見た。心の底から残り1人になりたいと思う。

「イチローよりもダルビッシュのほうが優れたプレイヤーだと思うといつか書いたが、同じようなことが松本人志と有吉弘行にも言える。少なくともフリートークのキレ味で、有吉は松本を大きく超えている」

このような、切っ先鋭いメッセージが断片的に詰め込まれた本です。正直言って大きな出版社からの発売ではありませんし(関係者の方々、失礼)、大したプロモーションもないですので、ベストセラーになる筋合いのものではありませんが、内容はワタシが保証します。

ベタに言えば生きるチカラが沸いてくる本です(…と人生論本にみせかけて売ろうとする)。ご家庭に一冊、ぜひどうぞ。

参考:石黒さんのブログより:
「『日本は、』内容紹介」
「装丁家デビューです&書籍デザインの実際」



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20120506/ポップスファンの視点からのAKB48論。

やっぱり『へビーローテーション』は名曲だと思うし、それ以降の曲はパワーが落ちていると感じる。同様にモーニング娘。で言えば『LOVEマシーン』は大名曲だと思っていたけど、そこから段階的にパワーダウンしたと感じていた。

AKB48を語ろうとすると、なぜか「秋元氏の強引な商法」が引き合いに出て、その観点からのビジネス批判話になってしまうことが多い。対して「俺はAKBファンの気持ちが分かっている」という観点からの無批判なAKB礼賛話が投げかけられる。

これはまったくの「水掛け論」であってあまり愉快なことではない。だとしたら「ポップスファンとしてAKBをどう捉えるのか」という、中立的?もしくはあさっての視点からのAKB論があってもいいと思う。

ここでひとつの仮説。「アイドルのマーケティングは、売れていくとファンしか見えなくなってしまう法則がある」。

モーニング娘。よりももう少し昔、おニャン子クラブのことを思い出してみる。やはり彼女たちも、初期には《冬のオペラグラス》や《風のInvitation》など、超ド級のポップスを発表していた。特に《冬の…》は、大げさではなくフィルスペクター+ビーチボーイズ+ブルース・スプリングスティーンと構造分解できる名曲。

ただ、問題はそこからニャンギラス《私は里歌ちゃん》に落ちていったという事実。で、私はそこにあるマーケティングの法則を見いだす。

はじめは純粋に売れる。テレビやラジオで聴いて、いいと感じてCDを買う(配信を購入する)。ここまでは大変純粋なポップス市場のあり方。ただしここから濃厚なファンが殺到する。乱暴に言えば何を出しても買う層が形成される。

そうしたときに制作者側が、《冬のオペラグラス》のような、広いファンに訴えるド級ポップス(当然、その制作は簡単ではない)よりも、目に見える、札束を握りしめてヨダレを垂らしている濃厚なファンに向けた安易な商売を考える。

「ニャンギラスでいいじゃないか」、「《私は里歌ちゃん》でいいじゃないか」、「それよりも次の●月●日のリリースに間に合わせよう」

他意がないことを伝えるために、あえておニャン子になぞらえたが、この「ファンしか見えなくなってしまう」構造が、モーニング娘。にもAKB48(の関連のグループ)にも発生しているのではないかと疑うのである。

ここでちょっと余談。AKBの曲には、信じられないぐらい奇妙な転調をする曲が多い。これも「ファンしか見えなくなってしまう」(=ファンなら奇妙な転調も喜んでくれるだろう)結果のひとつと推察する。

とはいえ、この不景気の中、鬼の首を取ったようにその姿勢を批判する気はない。目の前に札束があるのなら、それをぶん取りたくなるのは当たり前。

ただしその結果、そのグループの楽曲が、そしてグループのあり方自体がポップスじゃなくなっていくのなら、私には無関係なのだと言いたい。そして、こういう言い方こそが「水掛け論」の中で重要だと思っている(これも一種の「ビジネス批判話」なのだが)。

最後に。なぜポップスファンの視点からAKBを語るのか。だって秋元康ですよ。80年代歌謡ポップスの最高傑作のひとつ、小泉今日子《夜明けのMEW》を書いた秋元氏ですよ。語らない方が失礼というものですよ。



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20120430/大阪・上本町にて。

大阪、上本町。ゴールデンウィークのさなか、ワタシはここにいる。高校時代三年間を過ごした青春の地。

東京に負けず劣らず大阪も賑やかしい街で、当然のことながら街の変化も激しい。ここ上本町も、駅の南側はあれから二度ほど生まれ変わっているが、北側は見事なまでに変わらない。80年代がキレイに、真空パックで温存されている。

1983年の上本町で起きたいくつかの事柄―――

83年の年末ぐらいだったと思う。上本町の地上改札を出たあたり、近鉄百貨店の入口前で中古レコードのセールをやっていた。新品のLPのしっかりしたビニールではなく、中古レコード特有の細いピラピラのビニールに包まれたクイーン『オペラ座の夜』を買った。何度も何度も聴いた。B面の《'39》を気に入った。

それから数百枚買うことになる中古レコードの記念すべき一枚目。変な、間違った選択ではなく、この超ド級の大傑作アルバムで産湯をつかってほんとうによかったと思う。17歳のスージーくん、グッジョブである。

そういえば、いつかも書いた、近鉄百貨店でのビートルズ映画『HELP』の上映会。字幕がなくてストーリーがまったく分からなかったという失態。当時のワタシの気分を、マーティン・スコセッシが『HELP』のDVDに寄せた文章を真似て書いてみれば、

「映画のサウンドトラック。ぼくの青春のサウンドトラック。ぼくの思い出。ひとつの時代、このまま何にも出来ずにこの腐った青春が終わっていくんじゃないかという感覚の記憶は、決して消えることはない」

映画館もあった。今でもあるのかも知れない。フランス映画『ラ・ブーム2』。言っちゃあなんだが高校の先輩の女性と二人で行っているから立派なもんだ。でも何があったわけでもなく(これはバッジョブか?)、ただ、フレンチトーストのように甘ったるい主題歌だけが強く印象に残っている。

高校が近くにあった関係で、毎日、この街に来るわけである。現在の45歳の鈍重な歩き方ではなく、それはもう跳ねるように歩いていたはずだ。

いつかも書いたが、自宅と上本町を直径とする円環だけが世界だった。難波は、決して足を踏み入れない街ではないのだが、それなりの緊張と覚悟を持って臨む街であった。梅田、それはもう外国。京都と神戸、そんな街は知らない。

そもそも、梅田や難波のような大都会ではなく、梅田のような洗練、難波の猥雑でも隔絶されたところ、上本町。神社や寺、学校、そしてラブホテルと、清濁併せのむ複雑な価値観がひしめく、上本町。

大阪以外で語られる大阪は、梅田や難波、で最近では岸和田のような極端な断面ばかりだけれど、そうではない、なんとも説明できないこの上本町で育った男がいま、上本町でこの文章を書いているという事実。

Don't you hear my call Though you're many years away
僕の声が聞こえるかい? 君とははるか年月が離れてしまった
(クイーン《'39》)

よし、そんな「上本町ボーイズ」のスピリットを持って、この歌の舞台となった2039年まで生きてやるぞ。



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20120422/今年に入って読んだ(読んでいる)本。





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20120415/同世代に向けて、東京初台で小沢健二が奏でたポップスのこと。

「ポップスとは、高度資本主義社会の円滑な稼働に向けて大衆の欲求不満を解消させる装置として、自家用車、テレビジョンと並ぶ20世紀アメリカの三大発明である」

だと思うのです。もう少しポジディブに言い換えれば、だからこそポップスには(たとえそれがマイナーキーの暗い曲調であっても、最終的に)人々をポジティブする手触りがなければならないとも思うのです。

前回の記事で、主にアレンジの面から、小沢健二に感じる「多幸感」(=上記「人々をポジティブにする手触り」)を語りましたが、今回はコンサート・レポートとして、主に歌詞の面からそのあたりを語ってみたいと思います。

初台あたりを風を切って歩いて向かったのは「第十夜」。客席には意外に若い層が多くて、それもショートカットでレギンスを履いた感じの、ちょっと草食系(?)な感じの女の子。逆にワタシ(小沢氏の2歳上)と同世代の客は少なかった印象。

さて、ここ(「2010年のドアノック・ダンス」)にも少し書きましたが、小沢氏の歌詞に「二段階構造」を感じるのです。歌詞の冒頭ではキラキラとした少年性をあっけらかんと語りながら、歌詞の途中で突然、えらく長期的な人生観が呈示され(老人性?)、さらにはそれにまつわる無常観・諦観のようなものまでが顔を出すのです。

《ぼくらが旅に出る理由》
「♪そして毎日はつづいてく 丘を越え僕たちは歩く」

《いちょう並木のセレナーデ》
「♪やがて僕らが過ごした時間や 呼び交わしあった名前など いつか遠くへ飛び去る」

《東京恋愛専科》
「♪それでいつか僕と君が 齢をとってからも」

《流れ星ビバップ》
「♪忘れてた誤ちが 大人になり口を開ける時 流れ星探すことにしよう もう子供じゃないならね」

《強い気持ち強い愛》
「♪長い階段をのぼり 生きる日々が続く」

コンサート自体はとても完成度の高いもので、相変わらず決して上手いとは言えないけれど、当時を超える声量で押してくるボーカル、そして丹念に編曲され準備されたストリングス、八面六臂の活躍を見せるベーシストの中村氏。

そして何よりも小沢氏のギター演奏。新しいアレンジに合わせて新しい奏法(それも相当複雑なアルペジオなど)を用意している。和音楽器が小沢氏のギターだけなので音楽的にはたいへん負担が大きいのですが、見事に弾ききっていました。

1994年にアルバム『LIFE』があって、でもいろいろあって、世界のあちこち旅をしながら長い階段をのぼってきた小沢氏が、現在の感性でもう一度あのころの曲を再編集して呈示するコンサート。

そしてワタシが思ったのは、このコンサート全体のメッセージも「二段階構造」なのではないかということです。

「あのころキラキラした少年性を歌っていたぼくも、長い階段をのぼって、いろんなことがあって、年相応の準備と鍛錬をして、今こうして歌いきっている。だから君も、負けずに、長い階段をのぼっていくんだよ」

そう、このコンサート全体が、18年前に胸を痛めて《愛し愛されて生きるのさ》を聴いてた世代に向けたメッセージ。やや我田引水だが、そう考えると少なくともワタシ(たち)にとってはとってもスッキリ合点がいくのです。

もう一度。「ポップスとは、高度資本主義社会の円滑な稼働に向けて大衆の欲求不満を解消させる装置として、自家用車、テレビジョンと並ぶ20世紀アメリカの三大発明である」。

だとすれば、高度資本主義社会の中核にいて、はたまた家庭も持っていて、18年前からベルトの穴が3つぐらい外側に移動していて、なかなか18時30分から4時間もの時間を預けられない中年男女が、ポジティブに長い階段に向かっていけるパワーをもらえる音楽こそが優秀なポップスと言えるでしょう。

以上、同世代に向けて、東京初台で小沢健二が奏でたポップスのこと。4月12日、東京オペラシティ、18時30分開演、小沢健二コンサート『東京の街が奏でる』―――



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20120408/小沢健二『LIFE』のキラキラアレンジによる多幸感について。

今週木曜日、小沢健二のコンサートに行く。「コンサート嫌い」(ただし生野球観戦好き、生演芸鑑賞好き)の私としては珍しいのだが、ここ(「2010年のドアノック・ダンス」)に書いた経緯もあり、今回は特別。チケットも譲っていただきたいへんに有り難い。

さて、先週、リアルタイム世代と小沢健二を語り合う機会があり、そこである非常に趣深い言葉を聞いた。「アルバム『LIFE』の多幸感がいい」。

タコウカンという言葉は初めて聞いたが、名作アルバム『LIFE』を主語に置いたら、それが「多・幸・感」であることがすぐにピンと来た。そうそう、多幸感。

考えるに、あのアルバムの多幸感はかなりの部分、そのアレンジに依っている気がする。バンド編成に加えて、弦(ストリングス)とラッパ(ホーン)が鳴り響いている、あのキラキラした音。「キラキラネーム」ならぬ「キラキラアレンジ」。

代表的なものを挙げれば、《ぼくらが旅に出る理由》のイントロ。ポール・サイモンの 某曲に酷似したイントロなのだが、弦とラッパがこれでもかと響き渡る。特に弦のポルタメント(冒頭の、上にキューンと上がるところ)なんかはシビれる。Oh!多幸感。

今、冷静に思い出してみると、小沢氏がなぜ当時に、このようなキラキラアレンジを選択したのかがよく分からない。明らかに時代の中では浮いている。バンドブームが終わって、小室系のデジタル四つ打ちの時代が始まる中で、全く異質なキラキラ音。

超デッドな音に徹した前作の『犬は吠えるがキャラバンは進む』のセールスがそれほどでもなかったこと(かなりの大キャンペーンをしたと記憶している)への対応や、盟友小山田圭吾がダンスミュージックの方角に進んでいく状況に対するアンチだったのだろ うか。

さて、このキラキラアレンジ、当然のことながら、この『LIFE』の時点で生まれたものではない。というか、そもそも歌謡曲というものはすべてキラキラアレンジだったわけです。

どれでもいいけれど、たとえばザ・歌謡曲と言える《ブルーライト・ヨコハマ》(1968)の泣く子も黙るイントロ。ギターとチェンバロのジャーンに始まり、弦がすーっと漂う上にトランペットがメロディを奏で、それをギターとチェンバロが受け継ぐ。

スタジオの光景を想像していただきたい。大きいスタジオがあって、そこにジャズくずれのヒゲを生やしたドラマーやベーシストがいて、そこに貧乏音大学生のバイオリニストが緊張して入ってきて、そして控え室では長老のトランペッターがショートホープを咥えて花札をしている。そこにヘッドフォンをして指揮棒を持った筒美京平がおもむろに登場し、「せーのっ」でこの音を作り上げる。

この光景のなんとリッチなこと。今だとこれくらいの音のだいたいはPCひとつで作れるはずですが、それでも生演奏の魅力にはあと数%至らない。だから2012年の今、この《ブルーライト・ヨコハマ》のキラキライントロを聴いて奮え、そして多幸感を感じるのです。

そんな、全盛期歌謡曲の多幸感を感覚的に知っていたから(だから後に筒美京平本人とコラボレーションする)、かつ『犬キャラ』の反動、そして小室氏や小山田氏には決して創れない音だから、小沢氏は1994年の段階でキラキラアレンジを選択したのではないか(それにしても頭文字が「小」ばかり)。

憶測は尽きないが、とにかく突然変異的に世に投げ出されたキラキラ『LIFE』によって、当時の不遇なスージー君がどれだけ救われたことか。

1994年の『LIFE』。1994年のキラキラアレンジ。バブルが崩壊し、テレビ局と広告代理店と音楽出版社が徒党を組んで、ポップスの世界が商売まみれの世界に転げ落ちていく寸前に、キラキラした音でワタシたちを多幸感でいっぱいにしてくれた『LIFE』。

噂によれば今回のコンサートはシンプルな編成であまりキラキラしていないらしいが(笑)、それも考えようによっては2012年的な風景だろう。初台あたりを風を切って歩いて向かいたい。



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