20150627/無関心なことを無視する当たり前の知性を取り戻そう。

意見には3種類あることを、心にしっかりと書きとめるべきではないか。つまり、「肯定」「否定」、そして「無視」。

昔に比べて日々接する情報量が、加速度的に増えているとは、よく言われる話。一説によれば「流通情報量」は、 平成13年度(2001年)を100.0とすると、平成21年度(2009年)には198.7に倍増したという。

で、またその情報が、量が多いだけでなく、ここ最近、とても挑発的なものになっている気がする。

イメージとしてはFacebookのウォールに流れてくるさまざまなリンク記事。「●●●が泣けると世界的に話題に!」「●●●に対して世界中が大ブーイング!」「●●●が可愛すぎると世界中の女の子たちが大騒ぎ!」

こうなってくると、何か変な使命感のようなものが芽生えてきて、挑発的な情報、すべてに何らかの反応をしなくてはいけないという、奇妙な感覚に陥る。

昔は、情報の量が少なかったから、一つひとつに反応をしていても何とかなったのだが、最近は、量が多い上に、挑発的なので、反応して、げんなりしている・疲弊している「現代人」が多いのでは?

別に「無視」していいのではないか。そして、むしろ「無視」をするのが本当の知性ではないかと思うのだ。

例えば、例の神戸の殺人事件の犯人が出した本。賛否両論、いや「否」のほうがかなり多い論調となっているのだが、「否定」を声高に語っても、逆にそのことが、あの本の宣伝となっていくという、何とも言えない矛盾に突き当たる。

そもそも、私はあの本に興味が無いし、読もうとも思わない。これは「否定」というより「無関心」。そういう事柄には、積極的に「無視」を決め込むべきではないか。

つまり、「無関心」なものは「無視」しようぜ、という当たり前の思考法を取りもどそうということを言いたいのだ。

「あれ?これって、みんな本当は関心ないはずなのに、無理に関心をかき立てられて、無理して語ってるなぁ」という感じを受けることが、これまでしばしばあった。

大昔で言えば「ロス疑惑」。ちょっと前なら、小林幸子の事務所の問題とか。最近では、藤原紀香とくまきりあさ美の話。

なにか特別な力学が働いているのでは、と勘繰りたくなるくらい、「みんな本当は関心ないはずなのに、無理に関心をかき立てられて」いる感じがした話題。

マスコミが何と言おうと、自分が「無関心」なものは「無視」しよう。だって、「ロス疑惑」や小林幸子の事務所の顛末も、みんな忘れているでしょう? しょうがない。そもそも関心がなかったものだから。

3つ前の記事に書いたAKB総選挙の話。あのイベントにまつわるもろもろの中で、ワタシがいちばん強い違和感を感じるのは、「本当は関心がないであろう、いい年こいたオッサンが、無理して関心があるフリをしている」ことに対してである。

「●●●が泣けると世界的に話題に!」「●●●に対して世界中が大ブーイング!」「●●●が可愛すぎると世界中の女の子たちが大騒ぎ!」―――なんだそれ。その「世界」にワタシを入れないでくれ。

「大事なことはそんなんじゃない」(岡村靖幸)



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20150620/松田聖子のシングル曲はなぜメジャー(長調)ばかりなのか?

中川右介『松田聖子と中森明菜~一九八〇年代の革命』という本を読んで、なかなかに面白かった。そして、自らの80年代を振り返り、「この2人で言えば、松田聖子ばかり聴いていた、中森明菜はちっとも聴かなかった、シングルを1枚も持っていない」ということに気付いた。

別に、中森明菜が嫌いだったわけではない。ただ、どうにも曲に食指が動かなかったのだ、シングルを買おうかどうしようかと迷ったことすらない。選択肢にすらのぼっていない。

逆に、松田聖子のシングルやアルバムは何枚も持っている。まだ日本ロック史に明るくなかった当時のことだから、まだ松本隆や松任谷由実(呉田軽穂)、その他超豪華な作家陣のブランド・イメージで買ったわけでもない。でも食指が動いている。

そこで、とっても明快かつ衝撃的な事実に気付く―――「松田聖子のシングルはメジャー(長調)、中森明菜はマイナー(短調)」。

松田聖子のシングル(発表順で20曲):裸足の季節/青い珊瑚礁/風は秋色/Eighteen/チェリーブラッサム/夏の扉/白いパラソル/風立ちぬ/赤いスイートピー/渚のバルコニー/小麦色のマーメイド/野ばらのエチュード/秘密の花園/天国のキッス/ガラスの林檎/SWEET MEMORIES/瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ/Rock'n Rouge/時間の国のアリス/夏服のイヴ*/ピンクのモーツァルト/ハートのイアリング/天使のウィンク

呉田軽穂作品がメジャーとマイナーの中間的響きのメジャー・セブンスを多用しているので印象はぼやけるが、それでも、日野皓正作曲の変態ワルツ《夏服のイヴ》以外、すべてメジャー。

中森明菜のシングル(発表順で20曲):スローモーション/少女A/セカンド・ラブ/1⁄2の神話/トワイライト -夕暮れ便り-/禁区/北ウイング/サザン・ウインド/十戒 (1984)/飾りじゃないのよ涙は/ミ・アモーレ/SAND BEIGE -砂漠へ/SOLITUDE/DESIRE -情熱-/ジプシー・クイーン/Fin/TANGO NOIR/BLONDE/難破船

中森明菜の方は、ものの見事にすべてマイナー。

同じ時代にアイドルとして君臨した松田聖子と中森明菜。その2人が、ここまでくっきりとメジャーとマイナーで区分けされたのは何故なのだろう。

ここで、よく考えたら、この時期まで、アイドルといえど、マイナーの楽曲の方が主流だったことに気付く。

今ここで、細かく検証する余裕はないが、山口百恵はほとんどがマイナーのはず。郷ひろみも、それどころか、あの田原俊彦でさえ、《哀愁でいと》《悲しみ2ヤング》《グッドラックLOVE》などマイナー曲が一定数ある。

その背景にあったのは、「マイナーで切なく歌いこなすことが歌謡曲の本道である」という、日本音楽業界の通念(そしてそれは、今でもしぶとく生きている気がするのだが)

ということは、当時主流に見えた松田聖子の方が亜流で、マイナー路線をしっかり引き継いだ中森明菜が本流だったことになる。

「日本のトップアイドルで初めてメジャー曲ばかりをシングルにし続けた人」として空前絶後の存在、松田聖子。

では、松田聖子のスタッフたちは、なぜ、ここまで執拗にメジャーに固執したのだろうか。

長くなってきたので急いでまとめれば、松任谷由実、大滝詠一、財津和夫、細野晴臣……という松田聖子のコンポーザーたちは、みんな70年代に、「マイナーで切なく歌いこなすことが本道である」という通念と戦ってきた人たちである。

「日本の大衆音楽をもっとメジャーでポップなものにしたい!」という希望、渇望、欲望。

そこに、メジャーの楽曲がよく似合う、上の倍音が多い金属的な声質の天才少女が現れた。そして世の中は、大滝詠一『A LONG VACATION』などの、日本製ポップスを受け入れはじめた。さらに、80年代前半のあの軽薄短小な時代の空気。

そんなこんなが絡み合って、松田聖子のメジャー路線が敷かれたのだろう。そして、それにまんまと乗ってしまったのが、80年代前半のワタシだということだ。

結論―――ワタシ、そしてワタシ世代の音楽感覚は、松任谷由実、大滝詠一、財津和夫、細野晴臣らのポップへの欲望によって出来ている。



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20150613/今季の交流戦は、さすがに短すぎないか?

交流戦がもう終わる。おいおい、さすがに短すぎるだろう?

『ベースボールマガジン』にも書いたことだが、問題は、そもそも減らす必要があったのか、ということである。

パ・リーグが交流戦試合数の維持を訴え、セ・リーグが交流戦の試合数削減を訴える。この構造は、球界再編問題で飽きるほど見せつけられたもの。人気があるセ・リーグ(巨人戦・阪神戦)の利権に、パ・リーグがすがりつき、セ・リーグが蹴飛ばしているさま。

『週刊ベースボール』の6/25号、「日本球界の未来を考える」というコーナーでは、「セとしては、『(交流戦を)導入したのは、再編当時のパの救済策だった。もうなくてもいい』というのが本音だ」とあけすけに書かれている。

球界は、まだそんなに了見が狭いんだ、と落胆する。

順延ゲームを除いて、交流戦が、もう明日に終わってしまうという唐突な事実を目の前にして、あぁ短すぎると思ったと同時に、ここまで短いと、交流戦単体としての、さまざまな記録の価値がなくなるとも思う。

そのあたりを見越してか、今季から、交流戦の表彰に関する事項が少し変わっている。

【2014年】日本生命セ・パ交流戦期間中の優勝チームには、日本生命保険相互会社から賞金3000万円が贈られます。

【2015年】日本生命セ・パ交流戦期間中の通算勝利数で勝越しを達成したリーグの6球団および最高勝率球団へ日本生命保険相互会社から下記賞金が贈られます。
1位球団:1000万円
2位球団:500万円
3位球団:400万円
4位球団:300万円
5位球団:200万円
6位球団:100万円
最高勝率球団:500万円

この今季バージョンは非常にややこしい。要するに、試合数が少ないから、「最高勝率球団」総取りは忍びない。だからリーグ対リーグの対決にして、賞金を分散させよう、ということなのだろう。

交流戦の価値がなくなってきた(ファンの心理としては、そんなことはないと思うのだが)→だから試合数を減らそう→結果、さらに価値が希薄になってきた―――という、奇妙な矛盾、悪循環に陥っている気がする。

ワタシの改定案は以下。これで色んな問題が一気に解決し、魅力的な企画になると思う。

・交流戦試合数を、昨季同様の24試合に戻す。
・それを12試合ずつに分け、5~6月と、8月に分散させる(鮮度の維持)
・勝ち越したリーグに、ドラフト優先権だけでなく、日本シリーズの開幕権も付与

でも、今季のやり方だと、少なくとも来季は、今季のホームとビジターをひっくり返した組み合わせでやらないと不公平になるわけか。うーん、面倒くさい。



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20150607/若者は同じCDを2枚以上買ってはいけない。大人は若者に同じCDを2枚以上買わせてはいけない。

「AKB選抜総選挙」に関する報道を見たときの、なんとも言えない違和感は何なのだろう。そう考えはじめてから久しい。

AKBに入れ込む若者を見ても、不憫な感じこそすれ、違和感や嫌悪感は感じない。ワタシはたぶん、若者よりもAKBの側、それも、AKBをあやつり、むさぼり、金儲けをしている大人に対して、違和感を感じているのです。

山本彩「大島優子さんが票数は愛だと言っていましたが、私は票は絆だとも思っています。9万票の愛と、絆を深めることができて嬉しかったです」。

「票数は愛・票数は絆」とか言われると、そりゃ、若者はCD買って投票しますよ。ちなみに投票権がある人たちは、下記。CDの複数枚購入が、もっとも簡単な複数回投票の方法となる。

・AKB48公式ファンクラブ「二本柱の会」会員
・AKB48 Mobile会員
・AKB48公式スマートフォンアプリ会員
・AKB48 LIVE!! ON DEMAND月額見放題会員
・AKB OFFICIAL NET会員
・SKE48 Mobile会員
・SKE48 LIVE!! ON DEMAND月額見放題会員
・NMB48 Mobile会員
・NMB48 LIVE!! ON DEMAND月額見放題会員
・HKT48 Mobile会員
・HKT48 LIVE!! ON DEMAND月額見放題会員
AKB48 40thシングル「僕たちは戦わない」初回限定盤 / 通常盤/劇場盤CD封入 投票シリアルナンバー

話は違いますが、ワタシは若者によく「たくさん本を読め」と言います。ただし、それは昔の国語教師が言うそれではなくって、もうちょっと言葉を継ぎ足します。

「たくさん本を読みましょう。そのためには、本を読まないことです。なぜなら、日本は本、特に古本の文庫本などがとても安い。だから、どんどん買って、つまらなければ読まない。面白い本だけを読みまくる。そうして、無理なく、楽しく、たくさん本を読むべきです」

若者が、なけなしのお小遣いを使って、投票するためだけに、何枚ものCDを買っているという悲劇的な風景。

ワタシは、今さらあえて言いますが、本やCDは、同じものを2冊・2枚以上買ってはいけないと思うのです。特に若者は。

1冊の本、1枚のCDから広がる、新しい風景、魅力的な世界。それはもう本当に、人生を180度変えちゃうほどの。だとしたら、その可能性を無駄に1冊・1枚分閉ざすことはない。

で、こういう倫理観は、そう簡単に否定できないものだと信じているのですが、「AKB選抜総選挙」、ひいてはAKB的な商売に携わる大人たちを、この視点から批判する声が、ぜんぜん盛り上がってこないのはなぜだろう、と思うのです。

こういうことを今さら言うのは野暮だ、ダザい、分かってないよと感じさせる同調圧力。その同調圧力を意識的・無意識的に形成しているのが、「AKB好き」を公言する大人の芸能人、文化人、論客たち。

そうそう、もう誰もが忘れているであろう、「前田敦子とは何だったのか?」のテーマで討論した連中とか。

ナンシー関は昔、テレビ番組で企画された「ブラックビスケッツ」と「ポケットビスケッツ」のセールス対決でCDを売るという手法に「あんまりあこぎなことすんなよ」と書いた。

同調圧力に負けずに、こういうことを言える人が、本当の大人なんじゃないかと思うのです。若者よ、君が買ったその1枚を、岡村靖幸の『靖幸』に変えてごらん。



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20150531/スウィングとビートのせめぎ合い(2)~リンゴ・スターが生んだ「スウィングするエイト・ビート」の功績。

前項はこちら。概論しか書かなかったので、つかみどころがない記事だったかもしれません。

改めてまとめれば、「スウィング」は古今東西の人々の肉体から出てくる「揺れる」リズム概念。「ビート」は、クラシック音楽の登場以降、多くの人の合奏時に合わせるための数学的・人工的なリズム概念。

で、この2つがロック音楽において融合すると書いたのですが、今回は、さらに具体的に、その融合を先駆け、実践し、確立したのは、リンゴ・スターではないかという話をしたいのです。

ビートルズのロック音楽への貢献を、その影響力の大きさ順に箇条書きすれば、こうなると思っていました(ここに書いたものです)。

(1)おそろしく自由なコード進行の発見・発明
(2)ハイテクニックで緻密なコーラスワーク
(3)クラシックからブルースまで様々なジャンルとロックを融合
(4)スタジオ録音技術のイノベーションを推進
(5)演奏能力、とくにポールマッカートニーによるベース

ただし、いま改めて考えると、もしかしたら(1)の次、2位の水準で「リンゴ・スターによるスウィングとビートの融合」が入るかもしれません。

改めて、歴史的な演奏を聴いてみます。「ビートルズの全作品の中で、最もぞんざいに聴かれているアルバム」と言える、『The Beatles Anthology 1』より、ストックホルムにおけるライブでの《I Saw Her Standing There》(1963年)。 ※YouTubeのサイトでお聴きください

前回も確認したように、これ、楽譜上は、単なるエイトビートなのですが、演奏自体がおそろしくスウィングしている(言い換えると、シャッフルが入っている)。

ここで、リンゴ・スターは、もうデビュー後すぐに、スウィングとビートを融合させていたのか、という話になりますが、その通り。ライブでは、こういう魅力的な演奏をたくさん残しています。

「ライブでは」というところがポイント。キャバーン・クラブなどで、おびただしい回数のセッションを繰り返していくうちに、ライブの定番曲の演奏では、こういうグルーブが、4人の間で、自然に生まれ、発展したのでしょう。

ビートルズの活動が、ライブからレコーディングに軸を移行させる中で、リンゴ・スターによるこのような独特なグルーブはなりを潜めたかに見えます。ただし注意深く聴くと、少しずつ、リンゴ・スター特有の「スウィングするエイト・ビート」が目立ってくることが分かります。

ぎゅっと時計を巻いて、実質的ラスト・アルバム、『ABBEY ROAD』は、「スウィングするエイト・ビート」が確立した作品として位置づけられます。たとえば、《Come Together》のドラム・パターンは、エイト・ビートにシャッフル(3連符)が内蔵されている。

それ以外にも《Something》は、イントロがいきなり3連符だし、例の《The End》のドラム・ソロも含めて、『ABBEY ROAD』は、リンゴ・スター特有の、ゆったりとしたエイト・ビートが完成され、堪能できる1枚になっている。 ※YouTubeのサイトでお聴きください

で、大げさに言えば、黒人音楽(民族音楽)由来の「スウィング」と、クラシック音楽(西洋貴族音楽)由来の「ビート」が、ここに融合し、全世界の若者の腰を動かす魅力的なリズムが完成したということになります。

次回は、このリンゴ・スターによって生み出された魅力的なリズムが、どう日本に輸入されたかという話を書きたいと思います。次回があれば、ですが。



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20150525/東京新聞に見るメディアとしてのロックンロール。

まず最初に宣伝。現在発売中の『ベースボール・マガジン』で、交流戦について熱く書いています。なんか、交流戦が一般化しすぎて、少し軽視する空気が出てきていることを批判しています。ぜひご一読ください。

で、この『ベースボール・マガジン』と並んで、今注目すべきは、東京新聞だと思うのです。最近では、この「平和の俳句」が良かった。

東京新聞本日版より。やっぱりコレいいわ。さっき忌野清志郎の味わいと書いたが、よく読んだらこれ、清志郎というよりも真島昌利のテイストだ。

東京新聞を宅配し始めてからたぶん5年くらい。その前はたぶん毎日新聞だったけれど、面白くなくて、一時期宅配は日刊スポーツのみになっていた。それに東京新聞が乗った格好。

で、その間に、私自身のツイッターの活用も本格化してきたので、東京新聞の中の気に入ったフレーズをたまに撮影投稿していたわけです。今回はそのあたりをまとめてみます。

まずは2010年あたりに連載していた金原ひとみのコラムがとってもパンクで魅了された。

こちらは桧山珠美という方の見事な文章。

こちらは最近、森村誠一の夕刊コラムの書き出し。

で、これは感動したなぁ。「筆洗」というコーナーの、シーナ(&ザ・ロケット)の死去に際しての見事な文章。

で、最近は、朝刊の中川翔子、夕刊の財津和夫のコラムの読み応えにシビれています。

メディア周りでも、最近はきな臭い話が多いのですが、そういうときだからこそ、メディア・リテラシーを精一杯発揮し、自分にいちばんしっくりくるメディアを探せる権利を十分に行使しましょう。探す義務を自らに課しましょう。

そんなメディアが、ワタシにとっては、メディアとしてのロックンロール、東京新聞だったということです。

なぜロックンロールかって? この新聞は数年前に、この方の意見を載せているのですよ。



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20150517/スージー鈴木氏の最新「ラジオ・エアチェックリスト」。

そもそも今どき「エアチェック」かよ、という話なのですが、アマゾンでも取り扱っているのだから、合法だと思う、Radiko録音ソフトを使っているのです。

ワタシは、ネットを通して、日本全国のラジオが聴ける「Radikoプレミアム」に入っているので、このソフトを使えば、日本全国のラジオが録音できるのです。以下、ワタシの最新の「ラジオ・エアチェックリスト」を。

NHK『ラジオ深夜便』
まずは予想外の展開。この番組の深夜2時~4時に録音をセットしておけば、意外にも、洋楽・邦楽問わず、いい選曲が聴ける。特に3時台の「日本の歌・心の歌」が最近飛ばしていて、この前の「三木たかし特集」「湯川れい子特集」には泣けた。

ラジオ日本『クリス松村のいい音楽あります。』
次に、今や関東地区で、もっとも良質な音楽ステーションと化しているラジオ日本。今期の大収穫はこの番組。とても上品な(という表現がぴったり)選曲にはとても好感が持てる。クリス氏が書いた歌謡曲の本はあまり感心しなかったけど、ラジオのトークは絶品で知識も豊富。

ラジオ日本『全米トップ40 the 80's deluxe edition』
これは安定銘柄。80年代のある年のビルボードチャートを取り上げる。日本ではあまりヒットしなかった「純粋洋楽」まで取り上げるところが面白い。矢口清治という人の声は、日本ラジオDJ界の宝だと思う。

ラジオ日本『山本さゆりのミュージックパーク』
こちらも安定銘柄。おそろしく常連メンバーのみのリクエストで構成されるド深夜番組。こういう番組は、無理に最新ヒットを取り上げなくてよいだろう。むしろベイ・シティ・ローラーズ話など、山本氏のミーハー音楽史のドグマが出てくる瞬間の方が面白い。

FM COCOLO『MARK'E MUSIC MODE』
「Radikoプレミアム」最大の恩恵は、関東地区に居ながらにして、FM COCOLOを聴けること。この「45歳以上」をターゲットするという英断をしたステーションの選曲は、最高にして、むある意味最先端だと思う。その中でも、 大阪三大DJの1人、マーキー谷口氏が飛ばしまくるこの帯番組の心地よさたるや。必聴。

ABCラジオ『小林大作のメモリーズ・オブ・ユー』
安定銘柄。日曜の夕刻にこの番組が流れることまの安心感。毎日曜、阪神のデーゲームが早く終わってほしいと願っている。

ラジオ大阪『TOP POP MISIC』
こちらも非常に良質な平日帯。DJの長田和彦という人は、ラジオ日本の伝説の平日帯・音楽番組「ビートゴーズオン」の人で、大阪でもまたいい番組を担当している。

『亀渕昭信のお宝POPS』
そして最後は、日本ラジオ界の生ける伝説にして妖怪、亀渕昭信が番組を持っていたことを最近知る。こういうのはラジオ業界総がかりで応援するべきだと思う。サイトを見ていただき、「ラジ録」で。一番すぐに流れるエリアを見つけて、そこで録音するのが賢明。写真は亀渕氏&エヴァリー・ブラザーズ!

これに超安定銘柄であるTFM「山下達郎のサンデー・ソング・ブック」「桑田佳祐のやさしい夜遊び」を加えたのが、最新の「ラジオ・エアチェックリスト」。こういう音楽番組を好みますので、オススメがあれば教えてください。



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20150510/忌野清志郎は平和の人でもロックの人でもなく「変な人」だった。

ゴールデン・ウィークは、NHK BSの 「忌野清志郎プレミアムナイト」シリーズを堪能した。5/2の『第1夜:名盤ドキュメント~シングル・マン』と翌日の『第2夜:プレミアムドラマ~忌野清志郎トランジスタ・ラジオ』。よく出来ていた。

最近の忌野清志郎についての語られ方は、少し窮屈な感じがする。「社会派」として、もしくは「KING OF ROCK」(こんな言い方、いつから定着した?)として。忌野が席巻した80年代において、そんな極端な捉え方を誰もしてはいなかった。

では、どう捉えればいいのか、となるが、いやいや、そんなにエッジーに切り刻まなくてもよいのではないかと思うのだ。あれらそれやも含めて、まるごと忌野清志郎でよいではないか。

アルバム『シングル・マン』の音を再分析する「第1夜」。そこに表れたのは、あのアルバムの変ちくりんな音である。名盤とは思う。思うが、それよりもまずあの音は変である。そう思うのが、音楽ファンとしての正しい感性だろう。

まったくカテゴライズできない、忌野のボーカルとソング・ライティング(訳知り顔の方々はソウルにその根源を求めるが、そんな単純なものではない)を、アコースティック・ギターとウッド・ベースで支えようとする矛盾。それにタワー・オブ・パワーだから、何だか訳が分からない。

「第2夜」の方も、都立日野高校時代の栗原くん(忌野)の、飛びぬけてクレイジーな存在感を上手く表現していた。東京郊外の受験校で、音楽だけではなく、美術にもまたがったその才能が、下級生にも響き渡っている感じ。

ちなみに当時、忌野の(育ての)母が、息子について身の上相談を投稿したときの文章(1969年11月4日の朝日新聞より)。悩みながらも、ちょっと誇らしく思っている感じが微笑ましい。

18になる私の子供は小さい頃から寝起きのいい方ではありませんでしたが、高三になってからは登校時間になっても起きず、遅刻はしょっちゅう月に1回は休んでしまいます。私どもも口がすっぱくなるほどいい、先生からも注意受けましたが一向に直そうとはしません。

性格は内向的でハキハキとはしませんが、お友達には好かれているようです。高校卒業後は美術大学に入る予定でしたが最近では進学したくはないといいます。友達3人とギターで吹き込んだのをレコードにしたりあちらのホールあちらの放送局とあちこちで出演し時々は受けているそうです。

学校を休んだ日は一日中寝ています。どうしても大学に行かないなら高校を出てお勤めをして欲しいと申しますと、勤めはいやだ!ギターのプロのなる、と申します。私どもには何が何だか分からなくなりました。プロには簡単になれるものでしょうか?どうしたら学校に行かせる事ができるんでしょうか?

「忌野清志郎は変な人だった」で良いのではないか。で、その「変」のスコープに、「反原発」から「KING OF ROCK」まで入っている。どっちかだけで解釈しようとすることは、忌野の価値を矮小化することになると思うのだ。

これはジョン・レノンにも感じること。「愛と平和のジョン・レノン」というレッテルが、ロックンローラーとしての彼の魅力を、どれだけ遠ざけたことか。だからジョン・レノンも「変な人」でいい。

という意味で、日本の『ジョンの魂』と言える『シングル・マン』の中では、ウッド・ベースを弓で弾く(!)イントロから始まる《甲州街道はもう秋なのさ》が、いちばん変。

このコード進行。「♪秋なのさ~」のところの【Emaj7】の変さ加減。このアルバムは全体的に、メジャー・セブンスの変態感が充満している。山下達郎のメジャー・セブンスとは、質感がまったく違う。



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20150502/スウィングとビートのせめぎ合い~ロックのリズムの生成過程に関する仮説。

映画『セッション』が話題。で、この映画に関する、例の「菊地成孔=町山智浩論争」も一通り読んだのだが、それとは別にワタシは「ドラムスの演奏を教えることなどできるのか?」という、別のことが気になり始めたのです。

というのは、以下に仮説を述べますが、ドラムス、ひいてはロック音楽におけるリズムとはつまり、「スウィング」と「ビート」のせめぎ合いであり、その前者の「スウィング」については、肉体性がかなり強く、指導する、伝授するのが難しいのではと思ったのです。

では、ここから「ロック音楽におけるリズムの生成過程に関する仮説」。

(1)日本の音頭や、米国のブルースのみならず、土着的な民族音楽は、世界的にかなり高い確率で、シャッフルに近いリズムを持つ→「スウィング」(ぶらぶら揺れる)の概念。

(2)反面、ヨーロッパの貴族音楽から生まれたクラシックは、オクターブを数学的に12等分して平均律を作ったように、リズムに関しても、数学的な均等配分のリズムを持つ→「ビート」(続けざまに打つ)の概念。

(3)この「スウィング」と「ビート」を対照表にするとこうなる。

(4)ロックンロールの誕生によって、この2つが融合を迫られる。世界的な若者人口の増加とマスメディアの発展を受けて求められた、肉体的スウィング感と機械的なビート感を併せ持つ音楽。

(5)そこで、「スウィング」と「ビート」がせめぎ合う、ロックンロールのリズムが完成する。簡単に言えば、「エイト・ビートでタタタタと叩きたい」「シャッフルでタッタタッタと揺らしたい」が、あるバランスで均衡を保つリズム感。

※かまやつひろしは自著『ムッシュ!』で、スパイダース時代、ロックンロールを弾くときに「ギターだけエイト・ビートで、ドラムはシャッフルに」にしたと証言している。

と考えるのです。ではそのエイト・ビートとシャッフルが見事にせめぎ合った演奏はどれかというと、例えば、ビートルズで言えばこれ。そしてそのフォロワーとも言えるキャロルであればこれ。

両方とも、楽譜上はシンプルなエイト・ビートなのに、ぐんぐんスウィングしている。

あと、いい音源がなかったのですが、スパイダースの《ジョニー・B・グッド》も素晴らしいし、ハイロウズのドラマーの大島賢治という人が叩く《ハイロウズのテーマ》のドラム・イントロは、「スウィング」と「ビート」が見事に融合している。

―――みたいな考え方をした場合に、そもそも、その属人的で指導困難なそのスウィングの感覚は、教えることなどできるのだろうか、ど疑問を抱いたわけです。



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20150426/再結成するバンドにお願いしたい2つのこと。

ワタシは最近の「再結成ラッシュ」とでもいう風潮に、あまり加担したいとは思わないクチだが、それでも再結成ということ自体に反対なわけではない。「一度解散と決めたのなら、絶対再結成するな」などと憎まれ口を聞くつもりはない。

ただ、再結成にはいくつかのマナーがあると思うのだ。1つ、「再結成の理由にゴタクを並べないでほしい」、2つ、「せめてある程度演奏レベルを戻しておいてほしい」。

1つめについては、「いやぁ、ちょっと新しい商売も不発で、印税も尽きてきたので、もう一回稼ごうと思いまして」と正直に言ってくれればいいのにと思う。

「久々にみんなで演奏してみたら、めっちゃ懐かしくって、もう一回ライブしようと思いまして」みたいな、単純な音楽的動機でもいいだろう。

混迷した時代が、とか、同世代に勇気を、とか、はたまた東日本大震災の被災者に元気を、とか、そういう理由をとうとうと語って再結成するバンドが、最近非常に多い。

否定はしないけれど、「再結成したくってした」じゃなく「状況が俺たちに再結成させた」という言い方は、ちょっと卑怯な感じさえする。

あと、演奏レベルの話については言うまでもない。ちょっと前に、ある女性バンドの「再結成」をテレビで観て、びっくりしたことがある。歌がもう、人前に出すレベルになっていないのだ。

しかしそのバンドの再結成ツアーは成功したという。ワタシの周囲の同世代から「歌唱力なんでどうでもいいの。あのバンドは、私たちの思い出なんだから」と反論された。

思い出が歌唱力より優先される風潮。

大げさに言えば、そういう風潮が、日本の音楽文化のレベルを下げていくんだと思う。全盛期の声が出ないことに対して、思い出だからと許してしまうような空気。

音楽文化とは、つまり、どんな状況であれ、払ったチケット代分のエンタテインメント水準を要求する姿勢だと思うのだ。

ワタシはここ(「ポール・マッカートニー武道館公演『アリーナ席10万円』に感じること」)で書いたように、洋楽の「再結成ラッシュ」もあまり愉快に感じないが、幸か不幸か、向こうのジジイどもは、そのあたりをきっちり修正してくるから大したもんだ。

悔しいけれど、ポリスの再結成のとき(2007年)は、現役のときよりも上手いのではないかとさえ感じたものだ。

さて、レベッカが再結成するという。盛り上がっている人も多いようだが、1986年、早稲田大学の学園祭で行われたサプライズ・ライブにいたジジイは、少しばかり心配に思っているのだ。この張りつめた演奏を生で聴いている者として。

レベッカの事務所の大先輩は甲斐バンド。『バンド臨終図巻』(河出書房新社・名著!)によれば、86年に解散したものの、90年代以降、再結成を何度も何度も繰り返し、09年2月の武道館最終公演のあと「バンドはなくなっても曲は残る」と完全終結を宣言。

しかし、その5か月後にまた、5度目となる再結成ツアーを発表。さすがにマスコミの対応も冷ややかで、甲斐も「謝罪会見になると思った」と言いながら、そのツアーの名称が何と『NEVEREND TOUR』だったという―――

※と、こう書きながら、ザ・タイガースの再結成だけは、特別な思い入れを持ちました。そのあたりは、「ザ・タイガースの再結成は沢田研二の『普通性』のたまものだ」を参照のこと。



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20150418/上重聡に加藤浩次が「ちゃんと電車で帰ろうね」と言うのはズルい。

前回の記事に力を入れ過ぎたので、今回書くべきことが見つからず、ちょっと無理をして小ネタを書く。

上重聡アナは家まで電車で帰るべきなのか(武田砂鉄)

上重アナの事件はよく分からない。「局アナ」(嫌な響き)に貢いで、企業側にどういう見返りがあるのだろうか。いや、そもそも見返りを求めた行為なのか。まぁ、健康的ではない話であることは確実なのだが。

それよりも、こっちの方がより嫌な臭気を発していると思うのだ。

騒動が発覚し、番組の冒頭で謝罪した日の後半、加藤に「ちゃんと電車で帰ろうね」と突っ込まれた上重アナはタジタジになった(上リンクより)

メイン・キャスター加藤浩次が、上重の問題を茶化すことで、上重が抱えている問題を中和する構図。ワタシはこれが嫌なのだ。

この手は『とくダネ!』の小倉智昭もよく使う。芸能ゴシップのネタを賑やかしく取り上げておいて、小倉自ら「こんな下らないネタ、取り上げる必要あるの?」的な発言をすることで、さも自分はそのネタの選択に無関係の、ニュートラルな立場であることを強調しながら、番組のバランスを取る。

報道番組ではないが、『アッコにおまかせ』の和田アキ子も、下らないネタのときにそういう振る舞いをする。

メイン・キャスターは、放送局や制作側とは独立的存在を与えられている特別な存在であるというコンセンサスがあるかのように。そういうコンセンサスがある方が、進歩的なメディアの在り方だとプレゼンするように。

こういうのを「シャラくさい」というのではないか。

書きながら思い出したのは、『報道ステーション』における、古賀正明と古館伊知郎の口論である。あれも、見方を変えれば、放送局や制作側、さらには政府から、出演者が独立的存在なのか、否かの対決と捉えることが出来るのだ。

でも、ここで言いたいことは、日本のメディアにおけるキャスターは独立的な存在なのかということではない。そんな大仰な話ではなく、番組内で、メインキャスターが独立的存在であるかのような言動で、番組にまつわる問題点を、中和するのはズルいということである。

一緒に責任を取ってほしいと思うのだ。だって、メインなんだもん。

さらに言えば、問題がある人間は番組から締め出す。取り上げるネタの選択、その取り上げ方まで、自らの意志で首をつっこむ。メイン・キャスターを名乗るなら、そこまで関与するべきではないのか。

そこまでやって初めて、日本に本当のTVジャーナリズムというものが生まれると思うのだ。あれ?また大仰な話になっちゃうな。

TBSビデオ問題のとき、自らのなまえを冠したTBSの番組内で、筑紫哲也は「TBSは今日、死んだに等しいと思います。今日の午後まで私はこの番組を今日限りで辞める決心でおりました」と言った。

でも辞めなかったんだよなぁ。



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20150411/すべての人がタモリのように年を取る「温和国家」ニッポンへ。

安倍首相率いる政府の最近の好戦的な姿勢を「マッチョ」と表現する記事を読んで、あぁ面白いなぁ、と思った。そして、自分が嫌悪する、というか苦手に感じる価値観も、その「マッチョ」な感じなんだよなぁ、と一人で納得した。

もう約50年生きているが、生まれてこの方、戦争や軍艦、戦闘機なんかに憧れた経験などまるでない。それどころか、殴り合いのケンカもしたことがない。他人のケンカを見るのも嫌だ。

逆に、軟弱さは筋金入りだ。子どものころから、スタミナはない、脚も遅い、泳げない、そしてテレビ大好き、本はもっと好き、音楽は最高に好き。インドア最高。

しかし、このような軟弱さを宣言することに、2015年の今においても、どうも引け目を感じてしまうのはなぜだろう。

これはつまり「マッチョ」感覚がずっと、この国を支配しつづけているからである。だからこそ「軟弱=悪」となってしまうのだ。

では、この「マッチョ」の源流はどこにあるのか。「日本男児」「大和魂」みたいな言葉があるので、日本古来から「マッチョ」感覚が脈々と受け継がれていると思っている人が多いと思うが、それ、違うんじゃないか?

ワタシもちゃんと調べたわけではないが、「マッチョ」感覚は、明治維新以降の「脱亜入欧」の時代に、主にヨーロッパから流れてきたものではないかと思うのだ。

初めて見るヨーロッパ人。身体がデカい。姿勢がいい。肉ばかりを食っている。男や国が強くなることに最大限の価値を置いている。たえず革命や戦争をしているようだ。うーん、マッチョ最高。

対して、日本人はなんだ。背は低い。姿勢も悪い。草や魚ばかり食っている。酒ばかり飲んで女の尻を追っかけている。強くなろうなんて、考えちゃいない。革命も戦争も知らない。うーん、軟弱最低。

そもそも人種的視点として、白人(コーカソイド)はもともと過酷な自然の中で、狩猟によって生き抜いてきた人種。なので、強さが最大限の価値になる。

逆に黄色人種(モンゴロイド)は、温暖な自然と融和し、農業で生き残ってきた。だから強さよりも、マッチョよりも、温和であることに価値を置く。

そうだ。「軟弱」というからネガティブに聞こえるんだ。「温和」と言い換えたら、ポジティブなイメージが広がる。

ここで一つの提案。日本人は、「平和」という、もうカビが生えてしまった概念はなく、「温和」という、自分たちの皮膚感覚にぴったりと沿う新しい概念を提唱するべきではないか。

温かで和やかな「温和主義」。「積極的温和主義」。「温和を我らに」。そしてそれは、「反・マッチョ主義」。

戦争は言うまでもなく、兄弟喧嘩すらせず成長し、肉だけに偏らない新鮮でおいしい草や魚をふんだんに食べ、季節の中の節目節目に淡麗な純米大吟醸で盛り上がり、世界屈指の色彩感覚に基づいたオシャレを楽しみ、そして、キリスト教的教条主義にとらわれない自由な恋愛をして―――

と、そういう温和な日々を過ごしながら、世界最長寿の人生を謳歌する「温和大国」へ。もう少し具体的に言えば、そして、分かる人にはすごくよく分かるであろう比喩で言えば、要するに、すべての人々が、今のタモリのような60代になれる「温和大国」へ。

上の歴史的・人種論的考察は甚だ怪しいけれど、結論はもうこれしかないでしょう。ワタシはもう「PEACE」の訳語も「温和」にすればいいとさえ思うのです。



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20150405/今季のマリーンズはちょっと違うんじゃないかという期待。

まずは告知です。来週の日曜日、4月12日に行われる、「東京野球ブックフェア」に参加します。一昨年と同じく、石黒謙吾師匠との「いじりあいトーク」です。今から映像編集します。

■スージー鈴木・石黒謙吾「野球レア映像、愛のいじり合いトーク」
場所:1Fオープンスペースにて開催
時間:①13:45-14:15 ②16:15-16:45
紹介予定ネタ(あくまで予定):「熱闘甲子園」ハイライト、2007と2009/近鉄北川博敏「代打サヨナラ逆転満塁優勝ホームラン」/阪神・新庄の「敬遠球をさよならヒット」/日ハム・新庄の「球宴ホームスチール」/「探偵!ナイトスクープ」の「阪神ファンのおじいちゃん」/カズ山本「涙の球宴ホームラン」/マリーンズ「10年間の好プレー傑作選」

さて、それにしても、今季のマリーンズはいい感じです。これを書いている段階で4勝3敗と勝ち越しているから? いや、マリーンズファンは、勝ち負けなんて、そんな狭い了見でチームを判断したりしません。

どうでしょう? この映像。まぁ、よく見ると、なんだかドタバタな感じで、イマイチびしっと決まっていないのがマリーンズらしいのですが、そんなことはどうでもよい。

ワタシが言いたいのは、ファンを喜ばせるために、数年ぶりに球団が動き出したなぁ、という手ごたえの話をしています。

そういう手ごたえがいちばん大切だと思います。そこから生み出された施策の良し悪しは二の次。我々ファンとしては、とにかく球団が動いてくれていること自体が嬉しい。

逆に言えば、そういう気持ちになるくらい、この数年間、球団の動きが見えづらかった。

例えば、こんなのもいいですね。ちょっとしたことだけれど、センスがある(「しろ☆くろ」さん のサイトより)

思えば、2005年のとき、イベントとして、イニング前に桜吹雪みたいなのをまき散らそうとしたら、折からの強風にあおられて、フィールドに桜吹雪もどきが錯乱して、相手チーム・ホークスの王監督が怒ったみたいな話があった。

桜吹雪がいいかどうかは別として、2005年の日本一は、そういう、王監督を相手にするほどのチャレンジングなあの手この手を考えるという機運から生まれたような気がするのです。

ここ数年、マリーンズという球団が、とてもくすんで見えていた。

大谷翔平に代表される、スケールの大きい高校卒の若者がぐんぐん出てくるファイターズ。

2013年の日本シリーズ、仮設住宅の人々を熱狂させたイーグルス。

歴史に最大限の敬意を払った復刻ユニフォーム企画のライオンズ。

昨年のCS、T-岡田の逆転スリーランで、あの北川弘敏の代打サヨナラ逆転満塁優勝ホームラン」以来の感動を京セラドームに再現したバファローズ。

そして、常勝球団となり、他の11球団すべての見本となりつつあるホークス。

そんな中で、観客動員も最低となり、2005年あたりに感じていた、「因習にとらわれる他のチームよりも、チャレンジングな我がマリーンズ」という誇りを、いつのまにか幕張のどぶ川に捨て去っていた昨季までのファン・マインド。

今季はちょっと違うんじゃないか、と期待する昨今です。ちょっと負けず嫌いになってみるか、と。



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